治験
「岡崎さんお久しぶりです。さあ、乗ってください」
笹川さんがタクシーの後部座席からやわらかに微笑む。
「すみません。付き添ってくださって。よろしくお願いします」
春人が隣に乗り込むとドアが閉まった。
「ここから2時間ほどかかりますが、コンビニとか寄りたいところはありますか?」
「いえ、飲み物も準備してきたので大丈夫です」
「そうですか、では、布川記念記憶研究所までお願いします」
「はい。かしこまりました」
白髪混じりのドライバーが答え、タクシーが動き出した。
「引っ越しは終わりましたか?」
「はい、無事に。さっき大家さんにカギを返してきました。ほとんど寝に帰るだけだったので、壁紙の破損とかコンロや水回りもきれいで、お金請求されずに済みそうです」
「そうなんですね。ところで、荷物はそれだけですか?買い足したいものがあれば言ってくださいね」
「お気遣いありがとうございます。このリュックサック一つで十分でした」
「そうですか。あっ、夕食と翌日の朝食は出ますのでご安心くださいね」
「はい」
日がどんどん傾いていく。見慣れた街の景色を背にタクシーは、山の方角に進んでいく。
「これから山道になりますので、少し揺れますよ。あと20分程で到着します」
「分かりました」
つづら折りのカーブを登っていくと山の頂上付近の洋館の門の前でタクシーが停車した。笹川さんは、タクシーチケットを運転手に差し出すと、トランクから小ぶりなキャリーケースを取り出した。
インターホンを鳴らし、笹川ですと名のると門がゆっくりと空いた。修学旅行で訪れた文学館の雰囲気になんとなく似ている。門から庭園内の小道を抜けていくと立派なドアにつきあたった。こんなレトロな建物で最先端の研究や治験をしているのかとふと疑問が頭をよぎる。
「古い建物でびっくりしたでしょ。さあ、中へどうぞ」
笹川さんがドアを開けると、中は近代的で隅々まで見事にリノベーションされている。外と中のギャップがすごい。エントランスから突き当りまで長い廊下があり、両サイドにいくつか扉がある。一番手前の扉があき、砂田医師と検査技師の戸部さんが出迎えてくれた。
「岡崎さんお待ちしておりました」
「お久しぶりです。よろしくお願いいたします」
「ではこれから入院して頂くお部屋にご案内します。それではこちらへ」
戸部さんの後をぞろぞろついていく。廊下の中ほどを右に曲がると突き当りにガラス張りのエレベーターがある。古びた洋館の外観から、どうせ階段だろうと想像していた春人は、近代的なエレベーターを前にして目をしばたかせた。
「お部屋は、3階ですので、どうぞ」
戸部さんが開ボタンを押して手招きする。3階まで上がるとエレベーターの向かいの部屋に通された。
「こちらのお部屋にどうぞ」
戸部さんがドアを開けると入り口付近にクローゼットとユニットバス、窓際に小ぶりの丸テープルとひじ掛け椅子が2脚、手前にゆったりとした大きさのベッドがある。向かいの壁際のチェストの上には、電気ケトルとテレビ、下にはミニ冷蔵庫もある。開けてみると、炭酸飲料やミネラルウォーター、オレンジジュースなどで満たされている。
「どうぞご自由にお飲みになってください。後で料金の請求はありませんのでご安心を」
いたずらっぽく戸出さんが微笑む。
「それでは、治験前に説明がありますのでこちらにおかけください」
春人が腰掛けると砂田医師は、クリアファイルからプリントを取り出した。
「こちらが研究所の案内図です。1階は、会議室や社員食堂、3階は宿泊室が2つと、治験準備室が1つあります。2階は研究フロアとなっておりますので、セキュリティ上エレベーターは止まらないようになっています。階段を下りて行ってもパスがないと入れない仕組みになっています。あと3階の治験準備室もパスがないと入れません。それ以外は自由に散策いただいてかまいません」
「はい」
「今日の治験は、岡崎さんだけです。笹川さんは、向かい側のお部屋に宿泊されます。それとこちらの冊子ですが、退院後ご実家に戻られるということで目を通しておいてください。退院後ご家族やご近所の方に、記憶の空白部分について質問されることも想定されます。その時に困らないよう、こちらを参考になさってください」
「はい。ありがとうございます」
砂川医師が水色の冊子を春人に差し出す。
「こちらは、解離性健忘について書いてあります。こちらのパンフレットでご家族や周囲の方に記憶の空白についてご説明されると、納得される方が多いのでお渡ししています。目を通しておいてください」
「分かりました。治験について話しても理解してもらえなさそうだなと感じてました。なんて説明しようかなと思ってたところです」
「そうだったんですね。それは丁度よかった」
砂川医師が、今度はクリーム色の冊子を春人の前に置き、パラパラとページをめくる。
「その他に、想定されることとしては、ここ」
冊子の4ページ目の上部を指す。
「こちらの冊子は、治験Q&Aでして、例えば、治験後に周囲の方に以前は何の仕事をしていましたかと質問をされたら岡崎さんは、なんて返しますか?」
「新エネルギー興業という会社で営業をしていました。と答えます」
「引っかかりましたね!岡崎さん、治験後はお仕事に関する記憶は消えた状態になります」
そばにいる戸部さんと笹川さんがにっこり微笑んでいる。砂川医師もしてやったりとにんまり顔だ。
「あっ、そうでした。うっかりしてました」
「そこでこの冊子の回答が役に立ちます」
砂川医師はページの下部のAを指先でトントンとタップする。
A「すみません。私は、解離性健忘の影響でそのころの記憶がありません。」※備忘録を確認して回答しても良いと記してある。
「この回答のように、こちらの2冊の冊子や備忘録を活用してほしいのです。ところで備忘録は記入できましたか?」
「ええ、全ての項目を記入しましたし、その他にもいくつかメモしたので大丈夫だと思います」
「それは、良かった。大変だったでしょ。お疲れさまでした。さてこちらの書類なんですが…」
クリアファイルから残りのプリント1枚と白衣の胸ポケットからボールペンを取り出す。
「これは治験前最終の承諾書です。21時から治験を開始しますので、それまでに記入しておいてください。もちろん治験を中止したい場合はいつでもお伝えくださいね」
「いいえ、その必要はありません。治験を受けたい気持ちは変わりませんので、今書いちゃいますね」」
その場で承諾書に目を通し、日付と氏名を記入し、砂川医師に渡した。
「確かにお預かりしました。治験までの過ごし方や、明日の予定について、戸部から話があるので、私はこれで失礼します」
クリアファイルに承諾書を収めて砂川医師は退出した。
続けて春人は、戸部さんから修学旅行のしおりのようなサイズの印刷物を渡された。
戸部さんの説明によると夕食は19時から部屋で、20時30分までに風呂や歯磨き等終了してベッドに入るようにということ、21時から治験開始で、睡眠導入剤の点滴を開始、1時間ほどで治験は終了し、そのまま朝まで眠ってかまわないそうだ。翌朝は7時に自動でカーテンが開き、目覚めてから砂川先生の問診、7時半からお部屋で朝食、その後身支度をして、戸部さんと笹川さんが一緒に車で実家まで送るので9時には病院を出発するらしい。具体的な予定を聴くと、治験が目前まで迫ってきた実感がして、鳥肌が立つ。
「岡崎さん、他に何か分からないことや質問はありますか?」
「特にないです。あの…できれば食事は笹川さんと一緒に取りたいのですが…。一人で食べても味気ないので…」
「いいですよ。では、夕食と朝食はこちらのお部屋に2人分お持ちしますね」
「ありがとうございます」
「それでは、夕食までおくつろぎください」
「私も荷解きをして、夕食のときにまた伺いますね」
戸部さんと笹川さんは、にこりと微笑み、部屋をあとにした。
春人は、冷蔵庫からサイダーを出し、飲みながらテレビをつけ、もらった冊子をペラペラめくりながら、ベッドでゴロゴロした。あっという間に、3回ノックの後、夕食が運ばれてきたので、笹川さんとともに窓際の小さなテーブルで頂くことにした。
夕食のメニューは、蒸し野菜の胡麻ドレッシングがけ、ビーフシチューとロールパン、デザートは果物たっぷりのゼリーだった。ビーフシチューの牛肉がトロトロに煮込まれていて、レストラン並みの味わいだった。食後の紅茶を飲みながら笹川さんとたわいもない話をして、笹川さんは部屋に戻っていった。
食休みの後、風呂と歯磨きを済ませベッドでまたゴロゴロしていると、治験開始時刻になった。砂田医師と戸部さんが重そうな機材のカートを押してきた。戸部さんが慣れた手つきで配線や機材のセット、点滴の準備していく。
「岡崎さん、最終確認です。治験を受ける気持ちは変わりませんか?」
「はい、変わりません。よろしくお願いいたします」
「分かりました。ただいまから治験を開始します。睡眠導入剤を点滴しますので、ちょっとチクっとしますよ」
アルコール綿でヒヤッとした直後、左腕に若干の痛みを感じた。点滴の液がポトリポトリ垂れていく様子を見ていたら、次第に瞼が重くなり、とても開けていられなくなった。笹川医師や戸部さんが機材をいじりながら話しているが、何を言っているか分からない。次第に意識が遠のいていく。