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布田記念記憶研究所  作者: 小雨
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あなたのトラウマ消してみませんか?

拙い文章ですが、読んでいただければ幸いです。

頭上のケヤキから蝉の鳴き声が降り注いでくる。さっきベンチに腰掛けたばかりなのに全身から汗が噴き出してきた。日陰を選んだにもかかわらず、初夏の東京は、不快指数が高すぎる。グラウンドゴルフの片づけをしている人々が数人いる程度で、蝉の声以外は静かだ。

 受け取ったばかりの処方薬の袋をベンチに置く。ここのところ外出するとしても通院かスーパーの閉店間際に割引の総菜を買いに行く程度で、久々に直射日光をまともに浴びたような気がする。

 2週間前に岡崎春人(おかざきはると)は、新卒後丸4年勤めた会社を退職した。会社を辞めてからは、貯金を少しずつ切り崩しながら生活している。遠くの方から正午を知らせるチャイムが流れてくる。そういえば天気予報では、今日の最高気温は35度を超えるらしい。そろそろ帰らないと熱中症になりそうだ。

「隣に座ってもいいですか?」

目の前に白髪に眼鏡の小柄な男性がたっている。ベージュのスラックスに、水色の半そでシャツを合わせていて、どことなく上品な感じがする。春人が、処方薬の袋を膝の上に乗せると空いたスペースにゆっくりと腰掛ける。

「この公園には、よく来られるんですか?」

「いえ、今日が初めてです」

「あの…、どこかお体の調子がすぐれないのでは?」

視線が春人の膝の上の処方薬に注がれている。

「ええ、最近よく眠れなくて、食欲もあまりなくて…」

「それじゃあ、こんな炎天下にいては、体に障りますよ。近くに私の事務所がありますので、そこで少し涼んでいってください。ほら、すぐそこです」

公園の向かいにあるベージュの外観のマンションを指さす。

「そんな、お気になさらず。もう、帰ろうと思っていたところです」

「ご遠慮なさらずに、さあ行きましょう」

左腕をつかまれる。思ったより力強い。これは、非常に断りにくい状況になった。

左腕をつかまれたまま、公園をぬけ、マンションのエントランスをとおりエレベーターで5階まで上がる。505号室のカギを開けた。

「どうぞ中へ」

入ってすぐの向かって左側の部屋の扉を開ける。エアコンのスイッチを入れると8畳ほどの部屋はすぐひんやりしてきた。突き当りに大きな窓があり、壁には備え付けの本棚。一面に歴史小説からビジネス書、文学作品等、様々なタイトルが並んでいる。窓際のデスクの上にはノートパソコンが置いてある。部屋の中央にこじんまりした応接テーブルとL字型のソファーがある。

「どうぞここにかけてください。お茶持ってきますね」

ドアを閉めて廊下を歩いて行った。

ソファーに寄りかかる。エアコンの風が心地よい。すっかり汗はおさまったようだ。

春人が、窓の外を眺めながらぼおっとしていると、氷にたっぷり麦茶を注いだグラスが目の前に2つおかれた。

「さあどうぞ、喉が渇いているでしょう」

「頂きます」

良く冷えた麦茶がのどに滑り込んでいく。体中にじわりとしみこんでいく感じがする。

「あっ、そうそう、自己紹介がまだでしたね」

麦茶を一口飲んでからデスクの引き出しを、開けたり閉めたりして、薄い冊子を取り出すと、名刺を添えて春人に手渡す。

「自己紹介が遅くなりました。私は笹川茂(ささがわしげる)と申します。布田記念記憶研究所のアドバイザーをしています。事務所といっても自宅兼事務所ですが」

「頂戴します。退職してしまって名刺を持っていないのですが、岡崎春人と申します」

パンフレットと名刺に一般財団法人布田記念記憶研究所と書かれている。正直なところ今まで一度も耳にしたことがない。何かの営業か?やばい話になってきたか…。

パンフレットを2~3ページめくると組織図が載っている。

「布田記念記憶研究所は昭和初期に精神科医の布田仁(ぬのたひとし)が開院した布田医院が起源です。当時布田は、神経症と呼ばれた人々を日々治療する傍ら人間の記憶や現在PTSDと呼ばれる分野の研究にも邁進しました。晩年期に私財を投じて財団を立ち上げ、現在では、布田の志を継ぐ人々の働きで布田総合病院や、布田診療所、布田PTSD研究所、布田記念記憶研究所等年々規模を拡大しております」

(いよいよ、何か商品を売りつけられるか?健康食品か?)

「さて、前置きはここまでにして本題に入りましょう。岡崎さんは、忘れたい記憶はありますか?」

退職前の職場での出来事が鮮やかに蘇る。

「…。あります…」

「もしも忘れることが出来るとしたら、どうでしょうか?」

「う~ん。きっと、悪夢で毎晩うなされることも無くなるし、ごはんも今よりはおいしく食べられるようになると思います。最近、何を食べても味がしないんです」

「それはお辛いですね…。もしも、記憶を動画編集のように、一部分だけ消すことが出来る方法があるとしたらどうしますか?」

「消せるものなら消したいです。でも、そんなの出来ないんじゃないですか?時間の無駄だから考えないように、忘れよう、忘れようと色々努力したんですが、無理なんです。未だにリアルに蘇ってくるんです…」

「実は、今特許出願を目指している最新の技術がありまして、今日は岡崎さんにそのご案内をしようと思って事務所にお連れしました」

「正直、あまり信じられないんですが、そんなに技術って進歩しているんですか?」

「ええ、まるでSF小説の世界のようですね…。私どもの布田PTSD研究所では、長年トラウマの研究と治療を行っているのですが、薬物療法、心理療法等様々な治療を組み合わせて、クライエントの方々の支援を行っております。しかし、なかなか有効な治療方法が確立されておりませんでした。そこで布田PTSD研究所と布田記念記憶研究所と共同研究開発により、記憶の画像化と編集技術を開発いたしました」

「まだまだ信じられないんですが、それって安全性って大丈夫なんですか?記憶の編集って危ないんじゃないですか?ちょっと怖いんですけど…」

「ご安心ください。既に本人の同意のもと治験を実施し、全国でのべ500人の方が記憶の部分的な消去をしており、安全性も確認されています。消去といっても、部分的に眠らせるという感覚に似ていて、PTSDの原因の記憶だけ、眠らせるというか健忘状態にするようなイメージに近いと思います」

「もしも記憶を取り戻したくなったら、どうするんですか?」

「大丈夫です。もちろん可能ですよ。中には、そのように望まれる方もいらっしゃって、50人程度の方が、記憶を呼び覚ます治療を受け、すべての方が安全に記憶を取り戻しています」

「う~ん…」

「信じられないのも、無理もないですよ。私もそうでしたから…」

「笹川さんも?」

「ええ、実は私も500人の治験者の中の一人なんです」

「本当に、記憶を消したんですか?」

「はい。私の場合は、2年分ほどですけど…。プライベートなことなので詳細については差し控えたいと思いますが、3年前に治験を受けて、その後記憶が蘇ることもなく平穏に暮らしていますよ」

「あの…。笹川さんは、記憶を消して後悔はありませんか?」

「ええ、後悔はしておりません。気持ちが穏やかになり、日々の生活が楽になりました」

「そうなんですか…」

笹川さんは、リモコンを手に取りボタンを数回押す。部屋が十分冷えてきたので、エアコンの風量を弱めたようだ。

「あの、記憶を消してしまって困ったことはないんですか?」

「ええ、特にありません。施術前に備忘録というノートを渡されて、最低限、控えておくべきことは事前に書きだしますし…。以前、街で昔の知り合いらしき人物に呼び止められても、こちら側は、何も覚えておらず“きょとん”となるわけです。そうなると相手の方は、人違いだと思われるらしく、気恥ずかしそうにその場を去っていきますよ」

「そうなんですか…」

「岡崎さんは、まだ半信半疑といったところでしょうね…。」

「ええ、そんな感じです」

「私も治験を受ける前は、そうでしたよ。あぁ、そうだ。頂いたお菓子があるので持ってきますね。一人暮らしだと賞味期限内に食べるのがなかなか大変で…」

時計を見ると14時半を回っている。ずいぶん初対面の人の家で長居をしてしまった。

「どうぞ、お気遣いなく。そろそろ失礼しようかなと思っていたところです」

「そんなことをおっしゃらずに、召し上がっていってください。もう少し日が傾けば、気温も下がってきますよ」

笹川さんは、いそいそとお菓子を取りに行ってしまった。

(断り切れなかった…。こんなに長居をするつもりはなかったのに…。治験の話は、確かに半信半疑だが、笹川さんは、人柄がよさそうな感じだ。しかもこの部屋は、なんだか落ち着く…)

伸びをすると同時にあくびが漏れる。少しまどろんでいたら、笹川さんが戻ってきて黄緑色の箱に入った焼き菓子と淹れたてのコーヒーを春人の前に差し出す。

「さあさあ、お好きなものをどうぞ」

どれもおいしそうだが、春人は、オレンジピール入りのフィナンシェを選んだ。

頬張るとオレンジとほんのりと洋酒の香りが鼻に抜けた。

笹川さんは、迷いながらもチョコのフィナンシェに決めたようだ。

それからお互いに甘いものや映画が好きなことなどたわいもない話をした。時計が16時すぎていることに気づきに笹川さんの家をあとにすることにした。

返る間際に、笹川さんは、パンフレットと治験のお知らせというA4の用紙の入ったクリアファイルを手渡した。

「岡崎さん、これお渡ししますので、もし興味がありましたら、パンフレットに私の名刺をつけました。そこに私の携帯番号がありますから、いつでも連絡ください」

「はい。長時間お邪魔してしまいすみません」

「いえいえ、私の方は、この通りめったにお客様も来ないので暇にしています。岡崎さんとお話ができとても楽しかったですよ」

「こちらこそありがとうございます。お茶とお菓子ごちそうさまでした。では、失礼します」

「また、お会いできるといいですね」

マンションのエントランスまで見送りの申し出をここまでで大丈夫ですと断って玄関の外に一歩踏み出した。一瞬でじめっとした熱い空気に包まれた。

その日は、久しぶりに人と話した適度な疲労感で、退職後初めて1度も夜中に目が覚めることなく眠れた。



読んでくださりありがとうございます。

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