1話 一般人、巻き込まれる①
何となく息苦しくて鼻を動かすと、少し黴臭い木材の匂いがした。
はて、自分の部屋に、木製の家具などあっただろうか。
アパートの部屋にはテーブルも、椅子も、何の面白味もない安価な樹脂製のものしか置いていない。
そもそもどれくらい眠っていたのだろうかと、動かない頭でそこまで考えたところで、
「……遅刻!」
ユウは、突っ伏した恰好から顔を上げた。
辺りは、既に明るくなっていた。
出勤の時間は七時。日が長くなりはじめた今時期でも、まだ薄暗い筈だ。そもそも職場まで走ってもニ十分はかかるので、どう考えても間に合わないだろう。
何にしても、早く家を出なければならない。
遅刻はまだ謝れば済むだろうが、無断欠勤とされると最悪解雇されてしまう。
急いで職場に向かわなければと、ユウは寝ぼけ頭のまま慌てて立ち上がり、着替えを取ろうと背後のクローゼットに手を伸ばした。
つもりだった。
「ひゃっ」
「うんっ!?」
可愛らしい声が短く悲鳴を上げ、ユウもつられて素っ頓狂な声が出る。
固い取っ手を摘まもうとした筈が、ユウの手は薄ら温かくてふわりとしたものに触れ、その驚きでぼやけた視界が急激に像を結んだ。
手の中に収まっていたのは、小さな人の頭だった。
主は幼い少女のようで、触った頭は立ち上がったユウの腰から僅かに上くらいの位置にある。
一人暮らしのユウは、寝起きでいきなり人と、しかも少女と遭遇したことにパニックを起こしかけたが、手の中の小さな顔を見ると、もう三度驚くことになった。
一つは、その面立ち。図らずも撫でる格好になった灰色の髪も、白い顔の上で真ん丸になっているヘーゼルの瞳も、どう見ても日本人のものではない。
二つは、その姿。質素なドレスに前垂れのようなエプロンは、現代では珍しいヨーロッパ圏の女性の仕事着だが、日本ではまず見られない筈のその出で立ちは、ユウには強い既視感を抱かせるものだった。
「……あれ、君、エキュ?」
エキュと呼ばれた少女は、ユウに頭を撫でられる格好のまま、ぱちくりと目を瞬かせた。
「……はい、いかにもわたしは、アレス様とビアンカ様にお仕えするエキュですが。勇士様、わたしなどの名前をご存じなのですか?」
ユウは頷いた。
よく知っていた。
彼女は、シンボルオブフレイムサーガの舞台、アス大陸はアンリ王国で、主人公アレスと、ヒロインにしてそのフィアンセであるビアンカに使える小姓だ。
同時に、本作のガイド役であり、施設の案内やチュートリアルなど、様々な手配をして軍の動きをサポートしてくれる、幼いながら頼れる支援者である。
また同時に、アレスの協力者としてこの大陸に降り立ったプレイヤー、その分身のアバターにとっては物語上、初めて出会う登場人物だ。
と、目の前の人物の情報を頭の中で整理した所で、三度目の疑問と、
「い、いや、何でエキュがここに」
そして衝撃的な驚愕とが、襲ってきた。
「……って、エキュがいるっていうことは」
一瞬冷静になり、辺りを見回すと、そこはアパートの自室よりも、随分広い部屋だった。
広さもそうだが、石を積み上げた無骨な壁に、木を削っただけの四角いテーブルと椅子が並んだその部屋は、どこか学校の図工室に似ている。
だが、黒板の代わりに壁に貼られているのは地図だ。それも地球のものではない。
見知った形の大陸が描かれていることに変わりはなかったが、それはある筈のない土地のものだ。
ここはアス大陸、その最東端に位置するアンリ王国の砦の一つ。
シンボルオブフレイムサーガ始まりの地、ゲームスタート地点である、大陸最東端アスエイジの砦の詰所だった。