一線
彼女はお茶を飲みながら言った。
「私は、料理はしないです」
きっぱり。ばっさり。
それくらい、冷蔵庫を見てわかったよ。
もう一回言った。
「男の人は自分の時間を会社に売ったお金でランチとかご飯代を奢る代わりに女に家で料理とかをさせたがるけれど、私は料理はしないです」
驚いた。
思いもよらなかった。
時間を売った金。
僕は言った。
「僕が奢るのも君が奢るのもいいよ。料理も掃除も自分のことはできるし、良ければ僕がこっちに来た時は君の手伝いだってするよ」
言ったけれど、納得していない様子だった。
もしかしたら僕が、
『だって僕がした方が料理も掃除も上手くいきそうだし』
と思っていたのがバレていたのかもしれない。
昔の奢る男に料理を強要されて、『女』を押し付けられる事にうんざりしているのかも知れない。
でも、本当は料理の話でもお金の話でも、男とか女とかの話でもなく、人との根本的な関わり方に関する問題だと心のどこかでなんとなくわかってもいた。
今僕が直面しているのは屈辱ではなく、拒絶だった。
肉体関係にあっても、彼女の部屋には入れても、僕は彼女の心の太い一線の向こう側には入れてもらえないままだった。
僕は彼女の中には入れない。
だから僕たちはまだ、『付き合っていない』のだろう。
お茶を見て俯きながら思った。
そんなんじゃない。そういうんじゃない。思ったけれど、言えなかった。
そして彼女の心に響くような、届くような、何か気の利いた事が言えない自分が悔しかった。言えない自分が悔しくて、もどかしくて、でも諦めたく無かった。心の中で彼女の昔の男を呪った。
二人して黙ってお茶を飲んだ。
すると、僕の頭は突然八歳に戻って、忘れ物の罰が決まったあの日に飛んだ。
あの日、反対の人は手を挙げて、と言われて僕は手を挙げられなかった。たとえ一人きりでも僕が手を挙げていたのならば状況は変わっていたのだろうか。
不意に激情に駆られた。
「何で分からないの。僕は大好きな人にご馳走してあげたいよ。男だからじゃないよ、友達でもお母さんだって大好きだからご馳走してあげたい事だってあるよ。
時間を売ったお金って言うけど、そうかも知れないけど、だったら、お金が時間で人生の一部でしょう。
僕は僕のお金使って、時間使って、人生使って、大好きな人と一緒に居たいよ。美味しい物ご馳走して一緒に食べたり、プレゼントしたいよ。大好きだからだよ。お金じゃないよ。
何でわからないの?
馬鹿なの?
それくらい、何でわからないの?
これくらいわかるでしょう?わかって良いんじゃないの!」
きつい言い方をしているってわかっていたけれど、こんがらがっているかもだったけれど、勢いにまかせて言った。
僕もお金の話をしているようで、でも、同時に違う話をしていた。これは僕の誠意いっぱいの告白だ。拒絶を解いて、僕を受け入れてほしい。
でも、言いながら思ってもいた。これくらい分からないなら、彼女が『顔だけ女』だ。終わりだ。
彼女の目をじっと見つめた。
彼女は虚を突かれたような顔をして僕を見ていた。
やがて、ゆっくりと小さく三回頷いてから、静かに言った。
「はい」
言って、ちょっと泣きそうな、でもホッとしているような、初めて見せる顔で笑った。
簡潔だけれど、たった一言だけれど、僕を充分尊重してくれている『はい』だった。
たった一言で、ちょっと笑って、それだけで全部良かった。
その夜に僕は本当に『彼氏』になり、彼女も『彼女』になった。
そして、彼女は雑になった。
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