九〇 《猛虎》対《太公望》
韓殊、討ち死に。
あまりにも巨大すぎる玄武に加護を破られ、無惨に散った。
その瞬間、高句麗軍を五行侯の害毒から守る加護も消えた。
「「ぐああああーっ‼」」
南壁の兵は、鉄をも溶かす熱気に侵され悶絶する。
北壁の兵は、髄をも凍らす冷気に侵され悶絶する。
西壁の兵は、砂をも割らす燥気に侵され悶絶する。
「終いじゃ」
そう告げられ、姜以式はわなわなと見上げる。
雷獣がいる。
体高一〇〇メートルを誇り、黒い毛並みを整え蒼い鬣を波打たせ、凛々しい馬を思わす頭と体、猛々しい虎を思わす肢と爪、雄々しい鳳を思わす翼と尾、湾曲した二本と剣のような一本の金色に輝く角を掲げ、黄色く眩く奔りそして轟く雷を纏い、天へ立っている。
その背へ立つ武将が舞い降りてくる。
黒い小札板を並べ蒼く縁取り、金色に装飾する明光鎧を着込み、背甲から左右に電流を通す柄を立ち上げ、花吹雪のように黄色く輝く光刃の翼を形成し広げ、鬱金色にみなぎる覇玉を兜の額へ頂いている。たくましい肩を上げ組んだ腕にそれぞれ鉄塊を連ねた雌雄鞭を立て、髭は無駄なく長く流れ、頬は細く険しく固まり、眉は太く鋭く逆立ち、彫りの深い眼を切れ長に光らせてくる。
「選ぶがよい」
かつて《雷神》と渡り合った、黄華軍総大将にして〈五龍神将〉たる開眼者。
大将軍《雷帝》聞仲。
「兵を生かすため投降するか、魂を生かすため逃亡するか」
「……ぬ、なぜもう黙るのじゃ」
かっと、姜以式は眼を見開く。
「兵も魂も生かすため闘争するか、という選択肢も言わんかい」
「立て続けに将軍を喪いたいか。馬頭も今、四神の掌中におる」
「うぃー、モヒカン極道」
ざっと、義虎は畜生道の中心を睨み踏み出していく。
「ここでふんぞり返っとって? 義虎だけで斬り込む」
「あ? いいとこ取りすんのかおい」
「大軍師の本陣に乗り込むんだよ?」
にっと、唾を垂れ流し獰猛に跳びかかってくるネコ科猛獣たちを一閃する。
「相ー当ーな策謀が仕込まれとるでしょうから、捨て駒を投げ様子見すべき」
__という名目で、勝さんを救わんとぞ試みる。
駆けて斬り、伏せて斬り、跳んで斬り、息つく。
義虎も煌丸も疲弊しきっている。
__獣相手は堪えるね、力は強い、動きはデタラメ。
そんな二人しかいない。立ち塞がる勇壮な獣は五〇〇を超える。うち半数以上が草食獣、つまり動物化され洗脳される味方である。まずは肉食獣、つまり動物化され司令される敵が襲いかかってくる。
「てめえ仮にも大将軍だよな」
「うぃー、だって君が討たれでもして畜生道を無効化できんくなったら、かわいいだけの無能なモルモットにされて詰むじゃんね?」
回ってから薙ぎ払う。
__遠心力がなくば薙げんかったぞ、情けない。
すでに視界がおぼつかず、体も重くなってきた。
知ったことかと、斬って斬って斬って突き進む。
「けっ、俺さまの獲物も残しとけよ」
「残らず済むを願いたいね……斬る」
目にも止まらぬ速さで斜めに回転しながら、軌跡に血煙を熾し突破する。
同時に周りの林へ潜んでいた鳥たちが飛び出し、残してきた煌丸を狙う。
義虎はそのまま音速へ迫り突っ込んで、草食獣を殴って蹴って打ち倒す。
「おいおい援けに来ねえのかよ」
煌丸が猛禽類を蹂躙している。
「うぃー? 義虎だけで斬り込むとは言ったけど義虎だけで戦うとは言っとらんし? 君だってふんぞり返っとるだけじゃー退屈でしょうし? 下半身をクジャクとする人がワシやらタカやらに無双するさまは絵になるし? どーせ負けんでしょう?」
ゴリラが殴りかかってくる。
「てめマジで、そーいうよぉ」
殴り返し、煌丸を振り返る。
「無能な人格者じゃねえとこよぉ、好きだぜゴルァ」
ペリカンを振り回しサギを散らし、信頼に応えてくる。
にっと、尾を唸らせウシを打ち伏せ、敵の本陣を睨む。
__畜生の中で己だけ人間か?
道人がいる。
唐茶に染まる羽扇をあおぎ、唐茶の丸頭巾から純白に髪を流し髭をしごき、太極図を縫う唐茶の道服に鶴の羽を織ったような羽織を重ね、悠然として座している。背は低くないが体は大きくない、いかにも頭一つをもって動かず戦い勝つという矜持に鎮座されるように見える。
複雑なしわを広げる眼は細まりながら、黒目を真紅へ染め、中心を唐茶に溶かし、そこから太極図を描くように黒く紋を浮き出させ、唐茶に縁取り、白目も唐茶に薄め見据えてくる。
__出たね〈紅真虹覇力眼〉……。
畜生道を現し支配する、黄華軍大軍師にして〈五龍神将〉たる開眼者。
大将軍《太公望》姜子牙。
「下手を踏んだのう」
立ち上がり、おもむろに羽扇を振ってくる。
地鳴りが湧き起こる。四方八方から轟いてくる。近付いてくる。
__はあっ⁉ ざけんな、おかしいだろ数が。とりま探らねば。
「何をやらかしたと?」
「ここで腰を据え戦ったは軽はずみじゃったろう。わしは畜生道におる限り、神に等しく覇術領域内で起こる全てを知ることができる。故にそなたが踏み入りしそばから雷帝大将軍へこう念話したぞ。猛虎来たり、遼東城へ馳せ参じることはなし。いかがなったと思う」
「総攻めが掛かるなど百も承知にござるぞ?」
「期待通りの答えじゃ。が問題はそこかのう」
「うぃー、かような事態、確かに読み外した」
大和軍四万のうち、三万五〇〇〇が畜生道に呑まれ動物化した。
今、義虎たちを囲い込み続々と現れる草食獣は、二万をも超す。
すなわち、半数以上が生き延びたが、洗脳され敵となっている。
「洗脳し念話し……使役する」
「敗因を悟ったようじゃのう」
「辞書を引き忘れた点かな?」
__畜生道、弱肉強食にせめぐ鳥獣の世界であるのみならず、過酷に使役される家畜の世界でもあった……発動してしばらくは弱肉強食させといて、お眼鏡に適う将兵をふるいに掛けといて、で家畜にして大々的に潜伏させとったんかな、知らんけど……義虎たちが攻略しにくるを見越しとったな。
三万五〇〇〇の兵を討つ。
義虎という大将軍を討つ。
どちらが黄華軍をより助けるか。
__後者だもんね?
姜子牙であれば、時間はかかっても三万五〇〇〇を全滅させることは容易いだろう。だがそうしなかった。もし敵将を討てず畜生道を破られても保険とし得るよう、ある程度は殲滅しながらも、半数以上は、畜生道を発動していなければ使役できない駒にして生かしておいた。
人質とするためである。
義虎たちと潰し合わせるためである。
数の暴力をもってここで義虎たちを討ち取るためである。
「されど、お手前も一つ読み外しとる」
にっと、大将軍《猛虎》は突貫する。
「奴隷の底力をね」
がっと、拳骨へ覇力を練り固め、突っ込んでくるカモシカを殴り飛ばす。
突っ込んでくるバクを蹴り流し、回り込んでオランウータンへ手刀する。
イボイノシシも突っ込んでくる。こちらも突っ込み、柄を掲げ叩き込む。
跳び越えられた。
着地される前にと、振り向きながら尾を叩き込む。
体をひねり、いなされた。背で跳ねて着地するや、反転し向かってくる。
__なんつう動きしやがる……《禍津日》あたりが正体だったりして?
いなし返し、背を打ち据えにいく。
と、その背から小さな何かが跳び出し、目を狙ってくる。
頭を下げ、赤い角を当て打ち落とす。
__うぃー、角、初めて使ったよ?
リスであった。受け身を取られた。同時にイボイノシシが暴れてくる。
跳んで背を踏み抜き飛び立つが、ライチョウ、キジが急降下してくる。
柄を放り込む。急旋回してかわされ、カンガルーが跳び上がってくる。
疲労のあまり反応しそびれた。
腹を蹴り込まれ、平衡感覚が吹っ飛ぶような痛みが奔り抜け、熱く不味く舌触りの悪い液体がせり上がってきた。
本能的に吐き付ける。
着地しようというカンガルーの目を眩ませ、仕返しに尾で打ちのめす。
その隙を突かれ、鳥たちに背へ体当たりされる。鉤爪で皮を裂かれた。
仕返しに、飛ばされるのを利用し離れ、振り向きざま柄で打ちのめす。
ハト、カモには当たったが、ライチョウ、キジにはまた飛び去られた。
放置し振り向く。ゾウとキリンが視界を埋めてくる。柄で打ちかかる。
ゾウに恐ろしい馬力で鼻を振り抜かれ、弾き飛ばされ、武器を失った。
牙を突き込まれ、鱗の固まる翼でいなし蹴り込むも、突進し弾かれる。
__強い、鷲王さまだったりして?
ぎっと、獣脚へ覇力を凝り固め、負けじと蹴り直す。
やはり正面から突き飛ばされ受け流すも、キリンが蹴り込んでくる。
__うぃー、草食獣の分際で……。
前進しつつかわし、四肢の下へ潜り込む。
__最も強き肉食獣たるこの猛虎に……。
尾を張って回転する。
__敵うとでも思うてか⁉
薙ぎ払うように肢を打ち倒し、巨体をつんのめらせる。
そのつんのめる下から駆け入り、先ほどのイボイノシシが突っ込んできて、反応しきれず直撃され、どこをどう打撲したかも分からぬ絶望的な痛みを強いられ、めちゃくちゃに跳ね飛ばされた。
飛び上がり、さらなる突進をぎりぎりでかわす。
轟然と唸るゾウの鼻が、目前に飛び込んでくる。
全身を投げ出しても受け流しきれず、転がった。
舌打ちさせられた。
猛然として土を蹴立て、サイが突っ込んでくる。バイソンが突っ込んでくる。スイギュウが突っ込んでくる。ヘラジカが突っ込んでくる。トナカイが突っ込んでくる。ラクダが突っ込んでくる。ゴリラが突っ込んでくる。カバが突っ込んでくる。
「諦めよ」
義虎は今にも潰れそうな瞼をどうにか上げる。
姜子牙が、泰然自若として羽扇を扇いでいる。
「この圧倒的なる光景を見よ。そなたら大和軍が嵌まり込むよう、そして遼東城も危機へ陥るよう、この太公望が編み上げし傑作じゃ」
「片、腹、痛いわ」
どっと、苦悶をかなぐり捨て、空気をつんざき飛び出して、右手にシカ、左手にヤギを捕まえ回転し、放り投げてカバをひるませ、鋭く猛虎は吠え抜いた。
「すでに言った。君らは誰の前に立っておるかを正しく認識できておらぬ」
__そうでしょう……勝さん。
猛虎は駆けてくるシマウマと見詰め合っていた。