十六 我らは修羅にある
護国。
将軍は何を差し置いてもこれを成し遂げねばなない。
義虎は言った。最高責務を全うするため、刑の執行を引き延ばせ。
__うぃー、勝った。
陰滑はこの要求を呑まざるを得ない。
なぜなら、ここで義虎を処刑すれば、悟空に侵略される琥珀里を回復するため真っ先に出陣させられるのは、隣の瑪瑙里におり、将軍として同じ最高責務を有する陰滑となるからである。
陰滑には、悟空を打ち破る力も策もない。
敗れたなら、領土を奪われ、国威を貶め、護国を違えたと後ろ指を指され、責任を問われかねない。そもそも悟空に討たれかねない。
それならば、義虎にやらせ全責任を押し付けるに越したことはない。
「受刑を引き延ばすを許す」
陰滑が吐き捨てた。だが嗤った。
「ただし七日経っても斉天大聖およびその軍が引き揚げぬ時は、受刑ののち、市中引き回しをもって磔に処し、晒し首とする」
「ありがき幸せに存じまする」
__うぃー、おちょろさま。されど……。
義虎は萎えていた。深々と頭を下げる視界の片隅に、立ち尽くす麗亜の蒼白ぶりが映り込んでいた。
陰滑らは退室し、不気味な石室には四人だけとなっていた。
がばと麗亜が義虎へ背を向け身を伏せた。
「なんで……なんであんなこと……」
「予定通りだよ」
「うそだ! ひ、引き延ばしって何⁉ ありがたき幸せって何⁉ あんなに、へ、へりくだって、結局……死刑なのは変わってないじゃないですか!」
泣き声だった。
__うぃー、井の中の蛙って怖ろしい。
空柳義虎とは何か。
大和朝廷とは何か。
人間社会とは何か。
面倒だが、そこから教えてやる必要がある。義虎は心中ため息をつく。
妖美は戸惑ってはいるが、呑み込んでいる。
碧に至っては、完全に理解してくれている。
だが麗亜には、完全に未知の理なのだろう。
「義虎は奴隷だよ、故に」
意図せず声が低くなる。
「主命はすべからく遵守する、その他に心囚わることはなし。今の主たる大和朝廷よりいただく宣旨は第一に護国せよ、第二に育成せよ、第三に受刑せよであって助命を請うなどその他。しかるにこの場は、こが優先順位へ沿わんがための延命をなす場であって助命をなす場にはあらず」
麗亜の背を見る。震えている。
__悪いね、まだ君には本心を悟られる訳にはいかぬ、叛逆するは綱渡りなんだから。されどそんなに衝撃だった? まあ温室育ちの温情深き聖人には、奴隷の摂理を忌み嫌う節があるもんね……。
「分かんないよ!」
ばっと、麗亜が振り返る。紅にうずく眼で、義虎の渇いた目を射抜いてくる。
「なんであなたが奴隷なの⁉」
__そこ?
「大将軍でしょ、軍で一番偉いでしょ⁉ すごい武功あげた英雄なんでしょ、奴隷とか正反対だよ、おかしいよ! だいたい、なんで自分より下の将軍とかに隷属するの、後ろに朝廷がいるから⁉ それだって変だよ、朝廷には殿下の味方もいるのに、なんでこんな理不尽なことがまかり通るの、でもそれより……」
__ちょっと、え、何を言って……。
「なんで命を大事にしないの⁉」
どっと、麗亜は吐き出した。
へっと、義虎は言葉を失う。
ぎっと、麗亜は義虎を睨む。
大粒の涙をあふれ返し、食い入るように自分を見つめるこの少女に、義虎は沈黙するより他なかった。
__意味が分からん……。
「ねえ何か言ってよ!」
__嗚呼、こいつ本者なんだね。
「まず、奴隷に生まれれば死ぬまで奴隷のままと知りな」
叫びたげな麗亜を遮り、義虎はさらに声を低める。
「次に、朝廷なぞ血塗られた陰謀と野望と凶暴とが跋扈する絵に描いたような末法世界。上へ媚びを売り、横を嵌め倒し、下からは手柄を奪い休息を奪い条理を奪い家庭を奪い尊厳をも奪い取り、そうして保身し、数字へ固執し、富と権力を独占せねば生き残れぬこの腐りきった現代人間社会の権化に、君はいったい何を期待するか」
もう、麗亜は叫ばない。
「そして、愕然としたわ」
闇に、悪魔の眼が浮かび上がる。
「人殺しが命を大事にとか抜かすなよ」
凍結。
麗亜が首から肺まで固まっている。
妖美も目を閉じ、眉間へしわを寄せている。碧は薄く微笑んでいる。
「いかなる美辞麗句を並べようとも、戦は人殺し以外の何ものでもない」
猛虎は断じる。
「たいそうな志を掲げようとも、君らが人殺しである事実は終生変わらぬ。されど君らは望んでやった。そうせねば生き残れなんだ者らとは違う。すなわち血の業を骨肉へ刻み連れ立つ覚悟を固めてきたはず、それが生ぬるいことを言うもんじゃないよ」
__それでも頑として闘うなら、君を同志と断じたい。
「そして必ず覚えときな、人を殺めるが仕事なればこそ」
全員を見渡していく。
「殺める相手は、その母親が言語に絶する痛みをこらえて生んだ命であると、毎回踏まえて殺めるか否かを決断せよ」
じっと、若人たちは固まっている。
ふっと、義虎は声を高める。
「我らは修羅にある、これだけ分かっとけば無問題ね? 君らに生き残ってほしいから厳しめに言うんだよ、さて」
義虎は立ち上がり、麗亜の視線を逃れ石室を出る。
「さっそく動くよ? 七日で領土拡大をなす勲功者へ化けねばなんだから」
振り向かずとも、碧がすぐに付いてくるのが分かる。妖美が麗亜を立たせつつ、これが現実だと諭し、行こうと促すのが分かる。
__うぃー、木村氏には分岐点だね?
来た時と逆に石室へ通じる回廊を抜け、本丸の門まで出たところで、和洋折衷の着物にポニーテールを盛った少女が待っていた。
「ん、鉋さま!」
碧が声を弾ませ跳んでいく。
「ごきげんよう碧。少しお話がありますわ、今よろしくて?」
振り向く碧へ、義虎は無問題と即答した。
麗亜を休ませたかった。
__うぃー、あれが《剣の天女》嵐山鉋よな……されど鳥居氏の慕い慕われる恩人が、八岐大蛇の腹心の娘とは……なははは、思い付いちったよ、後々いかにして利用するか。
「うぃー、やる気出てきた」
ばっと、妖美の肩を叩く。
「義虎は戦の下準備しに先行することになったから、君は二人と来た道通りに追ってきな。二日の後、連れしょんした場所で合流しよ?」
「それでは、第二の責務が疎かになるのでは」
にっと、義虎は笑う。
「泥臭い支度なんざ覚えんでよろしい、きらびやかな本番でたっぷり育成するからね?」
飛んで、碧へ一言耳打ちする。ごくわずかに顔を曇らせ、頷かれた。
ここに義虎は、碧の荷物から自分の赤く燃ゆる将軍羽織をひっ掴み、ばさっと腕を通すや、門から空へと浮上した。
ふっと、麗亜を見た。
こちらを見上げていた。軽く手だけ振っておいた。
かすかに振り返したようだった。
「おめえの仕業だな骨虎?」
「うぃー、急ぎなね石猿?」
空柳義虎と孫悟空、二人の大将軍が向かい合っていた。
「君は前歴のおかげで疑われやすいから」
「きききっ、そう思って仕掛けたんだろ」
東の大和国と西の黄華国の国境。東は切り立つ岩場に閉ざされ、西は地平線まで何もない灰荒野の真ん中へ、二人は戻ってきた。片や相手のために領地も兵権も失い、片や相手のために謀反の疑いをかけられ、互いに一人、軍を離れここへ来た。
静かに、義虎は尋ねた。
「いつもの服は?」
悟空は日頃、虎の毛皮と絹を縫った豪勢な漢服を好む。だが今は、無彩色の麻で織った質素なそれを着ている。
「当分は虎皮なんざ着れねえや」
悟空は諦めたように笑った。
「天の上から地の底まで見渡してもだ、俺さまほどに人知を超えた比類なき軍神はいやしねえ。断じてやるぜ。そんな斉天大聖さまが唯一畏れる怪物ってなあ紛れもなく……空柳義虎大将軍、おめえだ」
義虎は想った。幾多の荒ぶる一騎討ち。
限界をかなぐり捨て、頑として諦めず、身も心も紅蓮に塗りたくって挑み続けた。研鑽し、探求し、行動し、どれだけ死力を尽くしても、尽くしても、尽くしても敵わなかった。それでも徐々に認めさせていた。
すっと、義虎は拱手した。
「かたじけない」
左の掌へ右の拳を合わせる、黄華国の礼法である。
「うぃー、正直に嬉しいわ。さればこそ後ろめたいとは思わぬよ。これが、猛虎の戦なれば」
「きききっ、次は俺さまが勝つからな。何年後か分かんねえがよ」
義虎が講じた悟空を破る五手目の策。
黄華国の都や悟空の領地へ間者を放ち、この噂を広めさせる。
孫悟空、謀反を画策す。
これを悟空が大和国へ攻め入り快勝している時期に合わせる。そうすれば、黄華国の朝廷にこう考えさせることができる。攻め取った地とそこの兵力を手中にし、戦勝の恩賞も得て、都から離れた所で安心して力を蓄える悟空なら、都へ進撃してくる可能性も否めない、と。
黄華国皇帝・楊広は傲慢にして疑り深く、その周りには英雄を妬む奸臣も多い。この一大事たる噂の火種は、打てば響くように抑え難い業火と化すだろう。
義虎の読みは的中した。
噂が流れてから、事の真偽を問いただすため悟空が都に召し出されるまで、一週間とかからなかった。義虎が陰滑へ七日宣言をしてから二日目となる今日、四月三〇日のことだった。
「うぃー、次は一騎討ちで、お互いきちんと全力を出しきり決着をば」
「きききっ、おうよ、まあ今回もまだ終わったわけじゃねんだけどな」
にっと、両雄は笑い合った。
「不在のままでもう二手をかわせるかな?」
「俺さまも前々から保険は用意してんだぜ」
ところで、と義虎は語気を静める。漂っていた砂ぼこりが去っていく。
「荒山道で訊いてきたでしょ、何故に戦うか……君は? 分かっとる?」
「……分かってねえな。向いてるからか? 行けっつわれて行ってるぜ」
「うぃー、それ義虎と……」
義虎は言葉を呑み込んだ。
「仲間とか領民とか護りたいからでは? ……内外から」
悟空が頬をかいた。
「おめえは結局どうなんよ、奴隷のままでい続けんのか」
義虎は胸をかいた。
「たとえ奴隷であろうとだ、でかいことは成し遂げれる」
悟空が胸をかいた。
「朗報を待ってるぜ」
去りゆく悟空へ、義虎は呼びかけた。
「もう君を、怨敵とは呼ぶまい」
高々と、悟空の手が振られた。
「うぃー、さすが石猿、抜け目ないねでは暴れるよ?」
月、改まって五月一日。
回収した碧、妖美、麗亜を率い、義虎は童心に帰って跳び跳ねている。
「ん、なアホな」
碧たちは義虎の正気を疑った。
岩陰へ潜み見下ろす荒野の道を埋め尽くすのは、悟空があらかじめ手配していた兵糧の輸送部隊、五〇〇〇であった。