十一 雷
そっと、義虎は額へ指を添える。
__雷さま……使うよ。
そこへ息づく英霊の士魂の結晶が、熱い。
優しかった大将軍《雷神》雷島片信。義虎が八歳の時、壮絶に逝った。
もう二度と、教えてもらえない。
もう二度と、遊んでもらえない。
もう二度と、歌ってもらえない。
もう二度と、励ましてもらえない。
もう二度と、抱きしめてもらえない。
それでも今なお護ってくれている。義虎は煌々と額を黄金色に輝かす。
麗亜も妖美も、改めて固まっている。
「頭に埋めとるやつ、雷神大将軍の覇玉なんだって」
碧へ頷き、義虎は空へ飛んでいく。空中浮遊は片信が有した覇能である。
__この戦、大いに勝たねば極刑。
そしてこれから、これまで何を犠牲としても、ありとあらゆる手を尽くしても、どれだけ命を投げ打っても、どうしても敵わなかった孫悟空へぶつける覇術も、片信が遺したものである。
__死すれば雷さまへ背くが故。
ごっと、熱い覇力を噴き上げる。
碧がふらつき、麗亜や妖美が固まり、八戒や敵兵が開口する。
__今こそ使う。
卑怯はいとわない。他力を利用するのもいとわない。劇薬を投与し人体を改造することもいとわない。それでもただ一つ、義虎が一〇年に渡り意地でも人前では使わなかったものがある。
片信が使った神たる覇術である。
畏れ多かった。
__逆に考えればいい。覇玉は一人に一つと限る摂理を淘汰せし雷さまが偉業、ここに天下へあまねく知らしめん。そして叛逆の切り札とする、いざ鍛えん。
悟空が目を見開いている。とくと見よと見据える。
ざっと、右手の人差し指で下を指す、降魔印を取り〈覇祝詞〉を奏上する。
「掛けまくも畏き建御雷神の大前に恐み恐みも白さく
石上古き国風の例の随に追儺の式仕へ奉らむと 斎まはり清まはる状を 平らけく安らけく聞食して
継ギガ厳ツ霊 枝葉万ニ天色染メ 稲光数多 掌ヲ出デ疾ク翔ケヨ
かくの如く申し追儺せよと依奉り 疎び荒び来む諸々の邪鬼共を神祓ひに祓はせ給ひて 大神等の敷座す里の同胞を守り幸へ給へと 恐み恐みも白す」
かっと、義虎は眼を見開く。
「超魂顕現『猛虎雷轟』」
__雷さま……我が御仏よ……。
ぐっと、義虎は微笑んだ。とうの昔に涸れ果てたはずの涙が、熱かった。
猛虎をかたどる黄金色の鎧に、赤くマントをはためかす。
背より円状に連ねる八つの太鼓に、三つの勾玉が渦巻く。
暗中へ奔り、折れ、弾け、分かれ合わさり、稲妻が光る。
「きききっ、その隠し玉は反則だぜ。おめえ実は……天下もいじくり回せる化物だったんじゃねえか!」
義虎と悟空が向かい合う。
「髄醒顕現『七二闘戦勝仏!』」
悟空は八戒と兵たちを下がらせ、雲を貫くほどの長大な鉄柱と化した如意棒を、義虎へと叩き込む。
「な、いくらなんでも、これはまずいよ!」
麗亜がわめく。碧とてうろたえたい。
しかし見上げる先で義虎は荘厳としてたたずんでいる。黄金色に輝きながら腕をかかげ、太鼓の一つを鳴らし、胸の前で手を叩く。
「八卦・開ノ陣……雷剛」
黄金色。閃光、轟音、衝撃。
がっと、如意棒が弾け飛ぶ。
悟空が視界の外へ穿たれる。
それは、雲をも貫く如意棒を殴り負かし、そのまままっすぐ、よける間も与えず、屈強なる髄醒状態となった悟空を瞬時に遥か彼方へ突き飛ばす、柱状に集う雷であった。
「二〇から二三番、変われ!」
黄龍。天馬。雲雀。霊亀。
山のような四霊獣が突っ込んでくる。黄龍、雲雀は風を裂き雲を滅ぼし、天馬、霊亀は辺りの岩場を崩落させ、砂塵を巻き上げ景色を奪い取る。その咆哮と猛進の恐怖に心臓をつぶされ、思考を痛め付けられ、麗亜は固まったまま涙をこぼす。
碧は分かっている。
「冗談抜きで天変地異……」
灰荒野の戦いで、義虎はなんの変哲もない偃月刀一本だけ持って跳び込み、一閃し、この四霊獣を葬った。一見すると、大きいだけでさほどの脅威ではないように映る。
だが、義虎がやるからである。
何度も血を吐き。
何度も身を裂き。
何度も眼を灼き。
常人の想像を絶する炎熱の場数を重ねに重ね、その身へ、空気が動くだけで背後から迫る凶刃を察知するや、逆に速疾、的確に斬り伏せるまでの練度をすり込ませた、義虎がやるからである。死を顧みずに挑み続け弱点を探り出し、山のような力で獰猛に襲いくる敵と乱闘しながら寸分たがわず斬れるだけの心技体を確立せんと狂ったであろう義虎がやるから、容易に見えるだけである。
義虎よりも強大で多彩な覇術をもつ碧らをして、手も足も出ないだろう。
「でもやる。二つ目・旋風の舞」
「うん、大将軍を守らなきゃ。きえーっ!」
今の義虎は満足に戦えない。悟空に砕かれた左腕が、肋骨が治っていない。碧と麗亜はその分まで、全身全霊の覇力を籠めて暴風と剣圧を放つ。
暴風が霊亀の甲羅に蹴散らされる。
剣圧が天馬の一角に断ち切られる。
二人が覇術を切らし膝から落ちる。
すっと、義虎が左右の手を胸の前へとかかげる。互いの親指と人さし指、中指で結ぶ三角形。双方二本の指を立て、水平の右へ左を垂直に。立てる、内から三本の指の右掌へ、重ねる、内から二本の左指。手を叩く。
「雷剛・天無絶雷」
ごっと、義虎の上下左右へ黄金色に輝く円周が膨らみ、奔り抜ける。その軌跡へ、数知れぬ、黄金色に輝く円が光り爆ぜる。
四霊獣が滅せられた。
息も吐かせぬ雷剛の一斉射であった。碧と麗亜が気張りに気張った攻めをいともたやすく撃砕する四霊獣が、何もさせてもらえず、一方的になぶり倒されていた。一発一発が、雲さえ貫く如意棒をも打ち倒す威力を誇る雷剛である。それを数知れず撃ち出し続ける。
「これが同じ超魂だっての……」
右では麗亜が凍り付く。いや味方だから、碧はそう言おうとしたが、声は出なかった。
「……そうでなくてはね」
左には、爛々と微笑む妖美がいた。
碧は思う。これが雷神の力。それならば、雷神と並び讃えられた風神の力をもつ自分も、この領域へ達することができるはず。否、達したい。
碧には戦う理由がなかった。
命を賭しても貫くべき信念などもたない。
名を挙げたいといった欲望などもたない。
親と村を返せと怒鳴る憎悪などもたない。
幼くして悪意と殺意の吹き溜まりを孤独に放浪するなかで、戦うことは息をすることと同義となっていた。戦場実習生となることを承諾したのは、自分よりも過酷な生き地獄にあえぎながらも、底辺から頂点まで這い上がったという義虎を、その実情を、知りたくなったからにすぎない。
だが知ってよかった。
灰荒野の戦いで無残に倒れた義虎を見て、次は勝たせたくなった。
琥玉城の密室で陰謀を嗤った義虎を見て、付いていくことにした。
荒山道の戦いで神威を魅せる義虎を見て、こうなりたいと思った。
戦う理由が生じ始めた。
夢にせよ、志にせよ、仇にせよ、欲にせよ、愛にせよ、戦う理由はなんでも構わない。何ももたない者が強くなるのは難しい。強くなくては、この腐りきった人間社会は生き抜いていけない。惨めな負け犬として人知れず朽ち果てることだけは、ごめんこうむる。そう、放浪するなかで悟った。
碧は黄金色に輝く義虎を見上げる。
おかげで強くなれそうだと。もっと魅せてくれと。がんばれと。
ふっと、義虎は眼を細める。
__うぃー、いいなぁ雷さまは、一歩も動かずこれですか。
ぶっと、義虎は血を吐き出す。
__されど発動して三〇秒にして適応値不足反応がヤバい。
ぷっと、義虎は額を抑えて嗤う。
__いいよ、天才へ一矢報いれるなら好きなだけ自壊しな。
戦人は猛る。互いの親指と人さし指、中指で結ぶ三角形。双方二本の指を立て、水平の右へ左を垂直に。立てる、内から三本の指の右掌へ、重ねる、内から二本の左指。手を叩く。
「雷剛・天無絶雷」
「十九番、変われ!」
ごっと、義虎がおびただしい雷剛を広範囲へ連射する。
ごっと、悟空が毛から変えた巨大な炎の塊を発射する。
「きききっ、この三昧真火はな、どんだけ水量積まれても消えねえ破壊の業火よ。俺さまは至高の神将、天と地ほどに隔たる地力の差で押し切ってやんぜ。そもそもこちとら髄醒だ、いつまでも超魂でかっこつけてられると思うかよ!」
「うぃー、これだから天才ちゃ……」
轟音が爆ぜ、熱線が飛び散り、眩耀が張り裂け、半径数キロ四方の人々を恐れおののかせ、雷と炎が激突する。
させながら、義虎は閉ざしていた方言の堰を蹴り倒す。
__使わんか゚じゃない使えんか゚んぜ……覇術の適応値がブザマすぎる非才やからね⁉ そもそも自分の脆弱な覇術ですら心臓いじって劇薬まみれでやっとなか゚いぜ、雷さまの精強な覇術なんか超魂ですらいちいち詠唱して印結ばんと発動できんちゃよ、それでも三〇秒使ったらもう吐血やねか、髄醒なんざすぐ出せるとでも思っとんか゚んけよ非才なめんな!
三昧真火が天無絶雷を押し込んでくる。
義虎は吐き出す朱で鎧の黄金色を汚す。
太鼓を二つ打つ。右手の、立てた二本の指を左手で握る。
「八卦・杜ノ陣……懺悔之肖像」
高圧電流がほとばしる。
変幻自在に飛び交う無数の光線である。黄金色に輝き闇を裂く、一つ一つの動きを操り、ぶつかり合う雷と炎を迂回し悟空を狙う。
悟空は觔斗雲を飛ばし、縦横無尽にかわしていく。
__うぃー、懺悔之肖像ちゃ囮だよ?
義虎は笑う。互いの親指と人さし指、中指で結ぶ三角形。双方二本の指を立て、水平の右へ左を垂直に。立てる、内から三本の指の右掌へ、重ねる、内から二本の左指。右手の、立てた二本の指を左手で握り。合掌する。
「八卦・景ノ陣……絶途啊雷喩」
雷雲が天空を隠し。
雷光が業火を隠し。
雷霆が戦場を隠し。
光と音と振動で頭蓋をえぐり割るような衝撃が静まり、ようやく視界の定まった新兵や黄華兵の目の前に、三昧真火はすでになかった。