百十六 豚が虎から聴いたこと
身長二三四から、十五メートルまで巨人化し大斧を振るブタの獣人、鬼爪。
身長一三四から、仁義礼智忠信孝悌の矢を射て心を操るイヌの半獣人、咲。
大和国の御前試合。
両者に敗れた氷使いの銀露、炎使いのきらら、そして席へ戻った《閻魔》毅臣ら首脳陣が見守るなか、巨人へまとわり付きその羽織へ隠れた少女が、ついに戦局へ佳境を呼んだ。
咲の矢が鬼爪へ届いた。
「ぶひい⁉ なんで俺さまぁあんな小っせえの、いじめてたんだ⁉」
土俵へ落ちた巨大な羽織から、咲が次の矢をつがえ這い出てくる。
「孝、ほしいな」
矢が放たれる。鬼爪がのけぞる。空ぶった。
咲が硬直し、観衆は一様にして目を疑った。
「危なかったぜ! これが心操られるってやつか!」
きららが銀露をぱしぱし叩く。
「何故⁉ おにづーの本能がさーちゃの覇術に勝ったってこと? 射られる! って見えて生命の危機感じて覚醒しちゃった?」
「であろうな。されど汝も同じであったぞ」
「そだっけ?」
「ああ、万能なる覇術などないのだな。ともかく蒼泉どのは苦しい……」
「俺さまぁどんな能力にも負けねえぜ! なんつっても俺さまにゃあ!」
どっと、見上げんばかりの巨人が大上段に大斧を振りかぶる。見ているだけで卒倒しかけんばかりの迫力に、銀露もきららも強ばり臨戦態勢を取りかける。
か細く小さな咲は震え怖じている。
「大力しかねんだからよお!」
ごっと、大斧の金剛力が炸裂する。
砕け散る土俵が花弁の開くがごとく突き上げられ、爆音が突き抜け噴煙が立ち昇り天守が揺れ動く。しかし行司を務める女将軍、陽波は斧を逸らしに飛び出さず、咲を救うことはなかった。
銀露は青ざめた。
「我の時は救って下された。まして蒼泉どのはご自分の里の……」
「ファッ! 見て、見捨てたんじゃないよ、信じきってたんだ!」
きららの指す先には、四つん這いになって逃げきった咲がいた。
「ぶ、ひいいいん!」
鬼爪が横薙ぎに追撃する。咲は煙へ紛れ回避する。
「仁、あげるね」
ばっと、咲は唱えつつ羽織へ跳び込んだ。
「さーちゃ諦めてない! 勝つ気でいる!」
十五メートルある鬼爪は、的としては十分すぎるほどに大きい。対して咲は小さく、毛の一本一本が背丈と変わらぬ巨人の毛皮へ隠れてしまえば、見付かりにくいことこの上ない。
矢が飛ぶ。斧を盾にして、鬼爪は羽織へ向かっていく。
矢が飛ぶ。鬼爪はぎりぎりでかわし、羽織の端を掴む。
矢が飛ぶ。羽織が振り回されるも、矢は兜へ突き立つ。
「げ、わりい!」
鬼爪が止まる。
「孝、ほしいな」
矢が飛び兜へ突き立つ。さしもの鬼爪も正気を取り戻す暇はなかった。
「ぶひい⁉ 俺さま、なんてことしてたんだ! わりい、降伏するぜ!」
場が沈黙した。
「ふむ、そこまで。勝者、蒼泉咲」
陽波が告げ、観衆がざわめいた。
きららが拍手し、銀露は頷いた。
「すばらしき一騎討ちだ」
咲の覇術が解け、鬼爪はぽかんとしている。
咲はへなへなと座り込み、わっと、涙を溢れ出させる。
「天乱九七年度、全国覇術学校御前試合、優勝は瑠璃里主席・蒼泉咲である」
慈愛に満ちた声音で告げる陽波を見詰め、咲はそよぐように尻尾を振った。
首脳陣も観衆も去った土俵を見上げ、銀露は感傷に浸っていた。
__我は強いと思っていた……。
家柄に恵まれ、体躯に恵まれ、素質に恵まれ、だが恩恵にあぐらをかくことを恥じ、昼夜を問わず一切合切もって妥協せず、武芸を鍛え、学業へ勤しみ、忠節を心身へ落とし込み、敬慕する曾祖父《氷神》と同じ覇術をもって生まれた運命を誇り、誇らしき家名を汚さぬよう常に上を目指し錬磨してきた。
__されど敗れた……。
自分を破った鬼爪もまた、咲に破られた。
自分など取るに足らぬかと、歯噛みする。
自分はなぜ家名を汚したのだと、あえぐ。
__努力が足らなんだ……否、努力が足ることなど終生ないのだ。
ならば帰って努力し直せばいい。
頭では分かっている。だが心が体を縛り上げる。
帰らせよと頭を急かすが、まるで心を破れない。
__おのれえっ!
「ぶひい⁉ うんこ我慢してんのか⁉」
感情をめちゃくちゃにされ振り向けば、きららが鬼爪と咲を連れて来ていた。
「……何故その、便などと」
「違えのか⁉ すげえ顔してやがったからよ!」
「も、もし具合とか悪いなら、な、治そうか?」
「ノープロブレム! 負けてショックなだけさ」
「おい」
鬼爪に爆笑された。むっと、色白の顔を紅潮させつつ見据えて問う。
「汝とて、そちらの蒼泉どのに敗れなさった。悔しくはないのですか」
また爆笑された。
「悔しいに決まってんだろ⁉ だから次は勝つぜ! その次も勝つし! その次も次も次も勝ってやらあ! んで俺さまの方が強えってショメイすんだよ!」
聴いていて、不意に空が晴れるようだった。
「きゃは、署名してどうすんのさ証明しなよ」
「どちくしょう! またチビにやられたぜ!」
「……大力豚どの」
すっと、銀露の心は体を進ませていた。
「我とて、次に汝と戦うなら……勝ちまする」
「キラだって、次はさーちゃに勝つかんね!」
「わん⁉ お、お手柔らかにぃ」
「がははは! いいじゃねえか、なら記念にだ、いい話してやるぜ!」
四年前、十二歳となった鬼爪は決意した。
「家出したぜ!」
大商人の次男坊として生まれたが、同年代の子らより二回りも大きく、頭を使うことと静かにすることが苦手で喧嘩っ早く、七歳にして大人の泥棒を一方的に殴り負かす怪力をもて余し、説教され物置小屋へ閉じ込められても壁を粉砕し脱走する始末で、家族からも学校からも邪険にされていた。
一人旅は楽しかった。
疎まれてきた怪力が、逆に光り輝いた。
腹が減れば野山へ分け入り、肉食獣を殴り伏せればよかった。
ごろつきに絡まれれば小躍りし、殴り倒して金品を奪取した。
独力であっさり鎧仗覇術を会得し、ついに戦場へ顔を出した。
「初めて恐かったぜ!」
大和軍へ交じり黄華軍へ打ちかかったが、初めて殺意に当てられ臆してしまった。
いかに天賦の武才と怪力を宿し、並みの大人より一回りは大きくとも、過酷なる練兵と実戦を重ね、整然と連携する百戦錬磨の軍隊を相手にしては、守備へ徹していようが十五分と戦い続けられるものではなかった。
初めて息を涸らし、死にもの狂いで逃げきって、木陰へ隠れて戦場を見渡した。
自分が負けたのだから味方も負けるだろうと。
負けてくれねば自分は弱者になってしまうと。
いたる所で赤い猛虎印の軍旗が進撃していた。
「大和軍が押してやがった!」
将軍自ら先陣を翔け、将兵を鼓舞し司令を飛ばし続けていた。武官らの覇術へ頼ることなく、退くところは退き、釣り出しては囲い込み、敵の陣形が乱れるやいなや迅速果敢に突入し、あれよあれよと敵本陣へ迫っていった。
悔しかった。
「許せんかったぜ、俺さまよか強え奴がいんのがよ!」
あの将軍が敵の将軍と相討ちになってくれれば自分より強い者はいなくなる、そう願って注視した。
敵の将軍は四人いた。
「〈四罪〉とか何とかのマジでやべえ奴らだったぜ!」
《北狄侯》共工。
《南蛮侯》驩兜。
《東夷侯》鯀。
《西戎侯》三苗。
一斉に髄醒覇術を発動し、遠く離れた鬼爪ですら臓腑が抜け落ちたかと錯覚するような覇力を押し付けてきた。共工が髭だらけの顔から体長一五〇メートルの蛇体を伸ばし、いきなり洪水を発生させるのが見えた。そんな輩がもう三人いた。
「だが《猛虎》ぁ勝ったんだよ!」
義虎は将兵を下がらせ真っ向から斬り込んだ。
「髄醒顕現『鉄刃空紅戦人』……ってよ! しっかり覚えてんぜ! いいか、四罪の覇術はよお、とち狂ってんだよ、だがよ、猛虎の覇術はよお、くそダセえんだよ! ぼろっぼろに泣かされたぜ……んな雑魚が化物ども全滅させたんだよ! 腕っぷしだけでだぞ!」
陣へ戻っていく義虎を目指し、鬼爪は一目散に駆け込んだ。
大和軍に捕まり暴れながら引っ立てられ、義虎と対面した。
感動した、なぜあんなにも強いのかと、男泣きして訴えた。
返事は意外だった。
「猛虎ぁめちゃくちゃ弱かったんだと! 策使いまくらねえと勝てねえ方が多いんだとよ! 信じらんねえだろ、だが俺さまが本気で感動したのぁその次よ!」
義虎に宣言された。
「『故にこそ力だけで勝てるよう励みたいじゃんね?』だとよ!」
鬼爪は銀露、きらら、そして咲へ宣言した。
「俺さまぁ大力無双になるぜ! 大力無双ってなぁよ、どんな相手にもよお、力だけで勝つ英雄のこったぜ! ぶ、ひいいいん!」
「……ふははは」
銀露は眼を閉じた。
義虎については祖父の晩露から聞いている。
猿虎合戦において山賊団へ頼り、利用するだけ利用したあげく騙して焼き殺したなど、様々な醜聞が付き纏う。しかし教え込まれてきた。噂だけで人物を判断しては失敗すると。
確実なのは、わずか一〇歳にして戦場へ出され、才なき身を酷使し修羅場を踏破し続け、二〇代にして奴隷兵という底辺から大将軍という頂点まで昇り詰めたということである。
立派だと思う。
__さような豪傑でも努力し続けている。
「我らも励み続けましょうぞ、猛虎大将軍を超えるまで」
策ではなく力で勝ちたい。
敗れた今なら同意できる。
__まさしく戦人の本能。
ぐっと、少年少女は頷き合った。
そしてほどなく、義虎が討ち死にしたとの噂を知ることとなる。