百七 俺の生徒に手ェ出してんじゃねえよ
命、潰えたかと思った。
とうてい十四歳の少女とは思えぬ汚い嗚咽もろとも、胃液がせり上がり口を突き破り飛び散った。もんどりうって地面へめり込まされ、ようやく腹を蹴り抜かれたのだと察するや、肉を断絶されたかと錯覚するほどの鈍痛に腹部がむしばまれ、突き倒され打ち付けた腕や腰が鋭い痛みに暴れ回られる。どこにどういう姿勢でいるかも分からなくなり、情けなく開いた口から気もち悪くなるほどに不味く生温い液体が垂れ下がるのをどうにもできず、命綱たる視界も定められなくなる。
「逃げて碧ちゃん、きえーっ! 逃げてえっ!」
「気絶したら殺られるべよ、起きるべよおっ!」
「身どもたちが時を稼ぐ、少しでも離れるんだ」
将軍・沙朝の蹴踏。
__えげつな……。
華奢な体と可憐な顔のどこから、そんな怪力無双の荒ぶる大男のような一撃が生まれ得るのか、襟を掴んで問いただしてやりたくなる。
麗亜たちが自分を守ろうと勇気を振りしぼり、必死になって沙朝へ挑んでいくのが分かる。傷付いていくだろう。加勢したくてたまらない。
どちらもできない。
__動けよ体あっ!
底辺の暮らしのなか、幾度も痛い思いをした。そのたびに体を引きずって逃げた。
戦場へ出て強敵へ立ち向かい、幾度も痛い思いをした。そのたびに体を叱り付けて戦い抜いてきた。
__今も動けよ、動けって、なんで動かんの、動け動け動け、動けよ!
山忠が膝を蹴られ倒れ伏し、庇う妖美が肩を打ち付けられ、鎧を砕き割られるや胸を跳び蹴りされ、鎧を砕き割られ片手と片膝を付く。
__動け! 動け! 動けよおっ!
麗亜が妖美を助けんと叫喚し、ぎらつき吠え上げる剣圧をはたき出し、軽くいなされ標的にされる。恐怖に憤り懸命に剣圧を乱射し、全てかすりもせず真正面から接近され、びっと、手刀を切られ頬を打ちのめされ、振り回されるように吹き飛ばされる。
__動けえっ! 動けえっ! 動けえっ!
沙朝が薙刀を振りかぶり、妖美が疾駆し麗亜の盾となり、一閃を叩き付けられる。
「きええーっ!」
そこへ至近距離から煌々と空色に霊気を燃やし、麗亜が満身の力を籠めた剣圧を叩き付ける。轟音と咆哮が夜陰をつんざき絶えぬ火花を乱舞させ、踏ん張り受けきる薙刀が振り抜かれ、唸りながら振り払われる霊気が地面をめちゃくちゃに切り刻む。
がっと、妖美が斬りかかり弾かれる。
__嘘だ……こんだけ畳みかけても崩せんとか、もう……。
はっと、碧は激しく首を横へ振る。
__諦めんといけんくても諦めん。
風神雷神が再臨しようとしている。
まだしていない。諦めて死んでいる場合ではない。強くなり、雷神《建御雷》空柳義虎へ並び立たなくてはならない。否、並び立ちたい。風神《風の巫女》鳥居碧という名を輝かせたい。いじめやがった人間社会をぶっ壊し、いじめてなんの価値があったかと見返してやりたい。
気力が湧いてきた。
覇力は残っている。動けなくとも戦える。
動かなくては戦えない義虎ならば、動けなくとも無理やりに動くだろう。動かずとも戦える碧が投げ出すなど、尊師へ対しあまりに恥ずかしすぎる。そんな彼をよく知る沙朝も言った。
『心臓が動いてる限りは足掻き続けなきゃ』
『まだ万策尽きてないでしょ、尽きるまで試しまくろう。尽きたら逃げ回りながらでも次の考えて。付け焼き刃でも見苦しくても、なんでもいいんだよ』
ぐっと、鎌鼬を練り始める。
「一つ目・疾風の舞」
沙朝が振り向き、撃った風の槌を切り裂かれる。
妖美へ背を向けさせた。狙い通りに妖美が斬り付け、弾く沙朝が背を見せる。
狙い通り。撃つ。
しかし振り向いてこない。しゃがまれ、疾風は妖美へ当たる。
振り向き駆け入ってくる。速い。焦るなと己へ言い聴かせる。
「四つ目・鎌鼬の舞」
風の刃を練りきり横薙ぎに奔らす。
かわすなら、跳ぶか、しゃがむかするだろう。つまり体勢が乱れる。
かわさず切り裂いてくる。体勢を乱し狙われるのを避けたとみえる。
__ん、見抜いとるのね。
先ほどは麗亜が連射した剣圧をかわしながら接近していた。かわして体勢を乱しても、その一瞬で撃ち抜かれることはないと察したのだろう。麗亜の覇術はあくまで強化種、太刀を振らねば剣圧は撃てず、次弾を撃つには振り戻さねばならない。
対して碧は自然種を使う。何もない空間から覇力の続く限り連発できる。
どっと、撃って撃って撃ちまくる。全てが切られる。構わず撃ちまくる。
威力は剣圧に劣る。容易に切られる。だが一瞬でも隙があれば射抜ける。
__疾風でね⁉
切りながら進めば隙は生じないというなら、それでも生じるまで撃ちまくればいい。手数ならいくらでもある。薙刀を振るだけで永遠に防ぎきれるはずがない。隙が生じるより早く接近されようと、啊呀風の舞で自らを飛び回らせ、距離を稼ぎ直してまた撃ちまくるまで。隙が生じるまでひたすら続ける。
粘り強く、挑み続ける。
「五つ目・啊呀風……」
間に合わなかった。
麗亜の悲鳴が聞こえ、駆け付けた山忠に固まられた。
「狙いには勘付いてたよ。だから突破力を誤認させた」
喉もとへ薙刀を突き付けられていた。急加速され反応しきれなかった。
__くっ、そぉおっ!
「疾風を決定打に置いとかずにね、鎌鼬に混ぜて撃ってればよかったよ」
__くそっ、そうだろ疾風なら風圧だもん、かわさせれるし、切られても足止めできるんに、だーもう、間違えもするわ緊迫しとったもん、天才じゃないと分かるわけないじゃん……。
顔がくしゃくしゃになるのを止められない。
__トラなら間違えんかった。
どこか近付けた気がしていた。
五龍神将たる黄飛虎へ立ち向かい、《毘沙門天》哪吒と一騎討ちして生き残り、姜桓楚を討ち取り将軍首を挙げた。死にもの狂いで戦い考え粘り、心身ともに研ぎ澄まされてきたと実感していた。
__まだまだ足りとらんかった……それでも。
かっと、少女は眼を見開いた。
「足るまでがんばる、足りてもがんばる」
「強いんだね」
姉が妹を撫でるように沙朝は言った。
「ん、そだよ」
次の瞬間に斬られるという状況で、碧は偉ぶってきた。
ほとほと感嘆する。
仮にも沙朝は刺客である、斬る気ないでしょと楽観視してなどいないだろう。義虎隊各々の覇術と外見は調べてある、ここにいる面々に、沙朝が斬るより速く碧を救う術はない。つまり碧には、斬られる刹那に逃げきる算段があるのだろう。それ以上に、この状況でうろたえるどころか強気を保つ、その胆力が尋常ではない。
「十三歳差なんだけどね、私の十三年前よりずっと偉い」
「ん、アラサー?」
「いやそれは二八からだから」
すっと、薙刀を下げて地面へ刺し、あぐらをかいた。
騒ぎ出しそうな周囲をよそに、目をぱちくりして小首をかしげてくる。
「お鉄を見てて確信したんだけど」
ふっと、夜空を見上げる。麗亜が霊気を上げ続け、ほのかに明るい。
「強くなるのに一番いるのは、武力とか智力よりやっぱ、心力だよね」
「ん」
「それを見せてもらった。風神の孫だからじゃない、大和の被害者だからじゃない、猛虎の教え子だからってだけじゃない。君自身がどんなに辛くても諦めないで、がんばって、がんばって、がんばってきたから、強い心力が身に付いたんだよ」
「……かたじけない。じゃあ決着付ける?」
「うん、本気でいくよ」
ごっと、沙朝は覇力を噴き上げ立ち上がり、薙刀を引き抜き踏ん張り振りかぶる。
刀身を色付かす。覇力甲は強度を上げるほどに色付く。将軍級と戦う強度である。
御空色である。
びっこを引いて駆け入ってくる山忠が碧を背に庇い、柄の両端にある鉄塊の片方が砕けた大杵を掲げ上げてくる。将軍をも討つ覇力甲を叩き込み、残った片方も砕き割り、腕も腰も脚も痛め付け這いつくばらせる。
「一つ目・疾風の舞」
山忠が這いつくばり視界が空くや、碧に風圧を撃ち出される。かわす。
「四つ目・鎌鼬の舞」
かわさず切り裂く。練るのに時を要する技のはずだが、いつから備えていたのだろう。と思う間もなく山忠に脚を掴まれ、すかさず疾風を撃ち込まれる。薙刀を打ち込み対抗するも、脚を引っ張られ体勢を崩され、風圧に突き飛ばされ妖美に強襲される。
薙刀一閃、妖美を打ちのけ山忠も打ち、脚を離させる。
「きえーっ!」
体勢を戻しつつ、襲いくる剣圧を両断する。
「超魂顕現『巌山殴亀』!」
どっと、足もとから堅固な大岩に激突される。覇力甲を纏い骨折は免れたものの、あれよと言う間に突き上げられていく。地面が盛り上がったのではない、山忠が地中から岩亀を召喚したのだと察した時には、すでに地上三〇メートルまで押し上げられ、碧を見失っていた。
「きえっ! きえっ! きえっ!」
下から乱射され、立ち並ぶ岩を盾にし跳び回り、碧を捜す。
麗亜が輝く霊気を立ち昇らせ、夜空に岩亀が浮かび上がる。
岩陰から妖美が跳び出し、斬り付けられ斬り返し斬り結ぶ。
「きえーっ!」
待っていた。
足をさばき妖美を剣圧の盾にし、彼が防ぐ間に跳び去り、岩々をつたい疾走し、地上へ跳び下り辺りを見渡す。岩亀が蹴り込んでくる。走りながら悠々とかわし、碧を見付け前かがみに疾駆する。岩亀の尾へしがみ付き運んでもらったのか、一〇〇メートル近く離れている。だがもう逃がさない。
「ん、四つ目・鎌鼬の舞」
「きえっ! きえっ! きえっ!」
麗亜に霊気で照らされ、前から鎌鼬、後ろから剣圧を掃射される。
びっと、沙朝は戦う感覚を研ぎ澄ます。彼女らとは雲泥の差たる修羅の場数を積みに積んで鍛え上げし、信ずべき本能の直感するがままに任せ、細かく軌道を変えつつ前だけ見て突撃する。
「くそっ、三つ目・山颪の舞」
ぐっと、付いた勢いを助走へ切り替え大きく踏ん張り、巨大な風の塊を落とされ地面が凹むより早く突っきって、電光一閃、碧へ迫り斬り付ける。
「……一つ目・疾風、の舞っ」
気張ってかわし、逸らされながらも刃を伸ばす。
碧の瞼が閉じかけている。覇力も体も限界なのだろう。
頬をかすめ、先ほど付けた傷とで十字を刻む。それでも碧は逃れんとする。
麗亜たちが絶叫する。
力尽き、碧が倒れていく。
ざっと、沙朝は踏み込み斬りかかる。
ごっと、烈火のごとく音速で飛び入る赤い偃月刀に止め上げられた。
__そんな……なぜ……。
熱湯の台風がぶちまけられた。そう疑った。
赤い翼を雄々しく広げ、粘膜でも張ったかというほど汗だくになりながら翔け付けた、世界最速の大将軍が瞳を薄め、大切な教え子を抱き止めていた。
「俺の生徒に手ェ出してんじゃねえよ」
怖れていた声そのものを聴かされた。