百 義虎と碧
__馬鹿トラ、どこにおるん?
碧は大好きな義虎を想い出す。
恋愛ではない。崇拝でもない。家族であると想っている。
そんな義虎は碧が目指す戦人の頂点にいる。大将軍である。
圧倒的な戦闘力。
超人的な洞察力。
絶対的な精神力。
いかにして義虎はこれらを錬成してきたか。
『腕まえで負けるは恥ずかしくない、気もちで負けるは恥ずかしすぎる。だから戦え、そして闘え』
かっと、碧は眼を見開く。
訳の分からぬ怒りが込み上げていた。前が見えなくなりかけていた。
敗れるからか。策が遅れているからか。義虎がいてくれないからか。
激しく痛み目は見えない。超魂覇術も使えない。もう斬られて死ぬ。
「死なんわあっ!」
がっと、刹那、剣が振り下ろされる微かな風圧へ一瞬にして反応し、鎖鎌一閃、満身の馬力をはたき出し弾きのける。そして麗亜を捕まえ、二振り目が奔る寸前で跳びのき、大喝する。
「わーが誰の教え子か分かっとらんのか⁉」
敵味方を問わず、おし黙らせ注目させる。
「諦めさすとか不可能だから!」
ざっと、力いっぱい踏み出す。
「我こそは! 後の大将軍《風の巫女》鳥居碧なり!」
碧が名乗った頃、義虎は獰猛なるクロヒョウやピューマ、ヒグマと格闘しながら畜生道を斬り進んでいた。
世界的な軍師の権威、姜子牙を凌ごうと挑んでいた。
疲労を叱責し猛り狂いつつ、己を姜子牙と比較した。
__生き延びんがため策謀を練って練って練りまくってきた、単位量あたりの濃度が違いすぎるんだよ⁉ 言うまでもなく武勇もしかり! そして何より執念もね! でないと並び立てるかってのよ……。
真っ朱になって義虎は笑った。
__この戦で化ける《風の巫女》に。
碧がかわいい。
恋愛ではない。崇拝でもない。家族であると想っている。
__人間社会は腐って干からびとる。
大きなヒグマが襲いかかってきた。小さく動いて斬り伏せた。
思った。動物など斬りたくない。斬るべきは悪人のみである。
善人とは何であろう。
地位や腕力、金銭に乏しい者や囚われぬ者、そして溺れぬ者は互いを思いやり、補い合い、慰め合い、笑い合い、誰かが失敗すれば許して助言し、成功すれば讃えて模倣しながら、無償で分け与えたり尽力したり聴き入ったりし、慈しみ合って小さな幸せへ感謝していた。高潔な信念など、非凡な能力など、優秀な成果などもっておらずとも、心が豊かであれば悪いことはないと思う。
護ってくれた父母がそうだった。
育ててくれた片信がそうだった。
救ってくれた王がそうだった。
逃してくれた鷲朧や旧友たちがそうだった。
迎えてくれた朱剣ら同胞たちがそうだった。
認めてくれた雲海ら英雄たちがそうだった。
支えてくれた臆母や勝助、山忠や山賊、談徳ら戦友たちがそうだった。
悪人とは何であろう。
彼らと異なり、心の貧しい者を指すのだと思う。
地位や腕力、金銭にしがみ付き傲り高ぶり、自己中心的に詰問し罵倒し搾取し欺瞞し密告し脅迫し命令し、やめるところを知らず欲し手段を選ばず、濫用する力を保つためなら威厳を捨て上へ媚びを売り、人情を捨て横を嵌め倒し、道理を捨て下からは手柄を奪い休息を奪い条理を奪い家庭を奪い尊厳をも奪い取り、そうして保身し、数字へ固執し、富と権力を独占せねば生き残れぬ。
そうした者に会いすぎた。
殴られ、奪われ、働かされすぎた。
人間とは本来そうしたものなのだと思い込んだ。
説得し抑止し更生させるなど、不可能に近いと。
そう割り切って備え、耐え、勘ぐり強くなった。
ぶっ壊したくなった。
__寂しいね。
そんなところへ碧は現れた。
善人と呼ぶべき人々とはすでに出逢っていたが、この少女は何かが違う。
師という立場で出逢い、風神雷神の縁があり、境遇が似ているのもある。
顔も声も仕草もカワイく、ちっこく、言うことなすこと雑でおもしろい。
だが家族であると想う所以はそこではない。
懐いてくれる。
頼ってくれる。
信じてくれる。
__この腐って干からびた社会で、唯一無二たる幸福でしょう?
なぜ甘えてくれるのか。
強いからではない。賢いからではない。位高き大将軍だからでもない。奴隷から逃れられぬ境遇に同情するからでもない。そして、風神雷神の縁で結ばれるからでもない。
無条件に慕ってくれる。
__そんなんして甘えられて、護りたくならん漢はおらんよね?
と言いつつ離れている。護るとは、身を守ることだけではないと思う。
__強く育む。
確信している。碧は驚異的に成長する。尊敬できる。
そして風神雷神を待つ《海神》雲海が金言をくれた。
__この義虎もまだまだ化けれる、化けたいじゃん。
視野が煌めくと言われた。
碧を護りきることにより。
__空柳義虎の〈柳〉か。
故に、七つの楽しみの最上たるは、碧を公表することであると決した。
碧も覚悟を決め名乗った。ならば義虎は一点の曇りもなく信じるのみ。
__義虎は出し尽くす。みども出し尽くせ。いざ、ともに化けようぞ。
碧の言葉を想い出す。
『がんばる教え子、見とってね』
かっと、義虎は眼を見開いた。
__真の風神雷神へ!
「我こそは! 後の大将軍《風の巫女》鳥居碧なり!」
__怒りに負けるな、怒りながらでも平常心だぞ!
姜桓楚が踏み出してくる。
「笑わせる。目も見えず超魂もできず、将軍を相手にし生き残れると思うか」
「ん、猛虎の教え子が何の策もなしに、将軍を相手にしに出てくると思うか」
ごっと、碧はかつてなく深く集中する。
ばっと、跳びすさる。
剣が振り抜かれ、鼻先すれすれを切り裂いていく。
「またかわすか、しかし、いつまでもつか……ぐっ」
姜桓楚がよろめくのが分かる。
__ん、なんで……でも好機!
はっと、本能的に斬り込むのを思いとどまり身を投げ出し、顔をしかめる。反撃した姜桓楚に刃を閃かされ、腕をかすめられた。すぐさま起き上がり距離を取れば、明かされた。
「五行侯には最終手段〈五臓情〉がある」
剣を構えてくる。
鎖と鎌を構える。
「ん、教えなよ。勝っても負けても、どっちかは命果てるんだし」
「司る五行に対応する感情を煽り、対応する臓器を傷ませる技だ」
麗亜も、舞夢や霊牙らも、固唾を飲んで一騎討ちを見守っている。
「だが代償に、己が臓器を蝕む」
姜桓楚がため息をつく。
「東を司る私であれば、敵を怒らせ目を痛ませ、代償として肝臓を損なう……滑稽だろう。使役する五麒麟を介さねば五悪陣も五臓情も使えぬうえ、代償まであるときた。五龍神将や四神とは比べるべくもない……そんな私が、初めて、彼らを見返すに足る武功を挙げようとしておるのだ。しくじることなどあろうか、いやない」
「ん、目痛いんも麒麟のとこから操作しとったん?」
「……いかにも、先ほど送らせた風害へ合わせてな」
言及すべきはそこか、と言われる前に碧は言う。
「すごいよ五行侯の覇術」
ふっと、背筋を伸ばす。
「わーの先生なんか、ろくな特殊能力ないくせに代償しかない、でも」
あっと、麗亜が声を漏らす。
「大将軍なんだよ」
くっと、姜桓楚が歯を噛みしめる。
「不運を呪っても時間と労力の無駄遣いでしかないと思う」
はっと、碧は言ってみて、義虎と初めて二人で話したことを想い出す。
自分が風神の孫であると告げられた。
吐きたくなった。
生まれ育った村が襲われ火を付けられ、優しかった村人たちが残虐に皆殺しにされ、逃がしてくれた父まで斬り殺され、別れたままの母も殺されたと聞いた。幼く、か弱く、行く宛てもなく、食べる物もなく、独りぼっちで悪意と殺意が吹き溜まる路傍を放浪し、盗み、騙し、殺すなかで心はすさび、幾度も、幾度も、幾度も、血の滲み出る身をかきむしり慟哭し運命を呪った。
この理由を義虎は看破したという。
聴いてしまえば、鳥居碧という存在は根底から崩落し、全く別の個体へ変貌してしまう気がした。重たい、得体の知れぬ妖怪が胃の中を這いずり回り、喉へ触手を詰め込んできた。
『一人で吐くな?』
まつ毛を上げれば、ずっと逢ってみたかった義虎がいた。
『風神は雷神とセットだから』
そして唱えられた。
『腕まえで負けるは恥ずかしくない、気もちで負けるは恥ずかしすぎる。だから戦え、そして闘え』
__無問題。わーはトラに並び立つんだから。
今、碧は雨が降ろうと晴らせる気がしている。
「わーは嘆かん。粘り勝って笑い飛ばしてやる」
言いきった。
「うん。諦めないで勝ち残ろう」
麗亜が立ち肩を支えてくれる。
「よく言った! よくぞ諦めないでくれたよ、粘り勝ったよ!」
はっと、碧は麗亜と手を取り合う。声の主は、援軍であった。
サボテンフクロウのざボ点が飛んできた。
__ん、しゃおらあっ!
姜桓楚や霊牙がざわめくなか、麗亜が南壁と繋いでいた念話で合図し、ざボ点が深碧に輝く覇玉をかざし、碧は一気に覇力を蘇らせた。
「超魂顕現『碧巫飆舞』」
碧色に眩く光り輝き、風の巫女は微笑んだ。