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病棟を歩くひと

作者: 森 彗子

 これは、私が実際に体験した恐怖です。


 数年前の十一月初頭のある日。突然、全身を蕁麻疹に覆われた私は、地元で有名なアレルギー専門の総合病院に急遽入院することになりました。


 案内された病室は四人部屋。私にあてがわれたベッドは、入口側の左手。


 建物自体がとても古く、七階建ての五階が皮膚科病棟でした。


 以前、この病院で長男を出産した経験があるのですが、婦人科の病棟とはまったく異なる雰囲気が漂っています。まるで古い障子の色褪せた紙に光を透したかのような黄ばんだ色を感じました。


 皮膚科病棟には特有の匂いがあり、日常から隔離されたような閉塞感も相まって、そんな風に感じたのかもしれません。


 問題の匂いというのが、病院にありがちな消毒液の匂いとはまた違う、なんとも言えない別種の薬品のような……。長い時間放置した汗の匂いというか、鼻の粘膜にこびりつくかび臭さにほんのり近い系の匂い。祖母と過ごした幼少期を思い出させる老人の皮膚から出る匂いといった、生き物が放つ一種独特の刺激はないけど確かに存在感がある匂いが全体的に漂っていました。


 ―――ああ、むり。この空気、ちょっと無理だわ。


 私はベッドの上で病院が用意した寝間着に着替えながら、早く退院したいと即座に考えました。


 カーテンは全部閉められているので、他の患者さんの姿はまったく見えません。


 狭い部屋が余計に狭く感じ、私も例に習ってカーテンを閉め、ベッドに横になりました。


 皮膚科部長の医師から蕁麻疹に効く薬を五錠飲むようにと指示が出て、看護師さんがみている前で全て飲み、看護師さんの手で膨疹(ぼうしん)にかゆみ止め軟膏を塗られ、あとはベッドに横になるように言われました。


 夕食を食べ、この日のシャワーを見送り、就寝。


 抗ヒスタミン薬は強い眠気を誘うので、私は朦朧(もうろう)としながら眠りに落ちていきました。


 次に目が覚めると、消灯が過ぎた深夜一時になっていました。そこで尿意をもよおした私は、スリッパをはいてトイレに向かいました。


 長い直線の廊下は東西に延び、私の部屋は西側の端っこに近い位置にあったので、中央部にあるフロアではここにしかないトイレに向かい歩きました。


 トイレから奥の方にナースステーションがあり、そのすぐ傍にエレベーターがあります。ナースステーションは明かりが点いており、はっきりと人の気配がありました。


 女子トイレは入り口から十歩ほど奥へ進むと、T字状に左右に広がり、左手に四つの個室があり、右手には洗濯場や尿瓶等が置かれている棚が並んでいます。


 手前から二つ目の個室に入り用を足し終え、来た道を戻りました。パタパタという自分一人分の足音が、長い廊下に響いていました。


 ベッドに入って目を閉じてから、どれぐらい時間が経ったのかわからない頃。


 スタスタと歩く足音がこちらに近付いてきます。


 私は小さい頃から眠りが浅いことが多いので、人の足音がするとちゃんと「あ、誰かこっちに来る」と気付くのですが、この時はすぐに看護師さんの巡回なんだとわかりました。


 部屋に入ってきた足音は奥のカーテンから順に様子を確認し、私のところにも顔を覗かせてから部屋を出ていきました。ちなみにこの病棟はすべてドアが開放してあり、人の出入りは空気の流れなどで感じられるような環境でした。


 明け方に近付くと窓側の暖房が金属音を出します。知っている音は、特に怖くもなんともありません。でも、聞きなれない音や、想像はできるけど確かめようがない場所からする音には、不快感と不安感を同時に覚えます。


 カーテン越しの患者さん達の苦しそうな咳の音、皮膚を掻く音、鼻をかむ音。視覚で確認できないそれらの音が、私の脳内では映像として再生されるのです。


 でも、知らない音はそこだけ空白になります。


 眠っているのにはっきりと意識がある状態。身体は動かないのに、人の出入りや立てる物音をひとつずつ頭の中で検証する状態。それは自宅で蕁麻疹に苦しんでいる時とはまた別の苦しさがありました。


 それでもベッドに横になっていればいつの間にか意識を手放して眠ってしまう瞬間は必ずあります。睡眠の波に翻弄(ほんろう)されながら、私はまたとある物音で覚醒(かくせい)しました。


 カラカラという滑車(かっしゃ)の音です。そして、ツヤツヤとしたビニールタイルを張った床を滑るように歩く、スリッパの音。さらに、「うぉっ」という声が、リズム正しく繰り返されているのです。


 長い廊下の端から始まったその得体の知れない声を発するお爺さんは、真夜中だというのに声を出しながら歩いています。


 遠近感覚が働いて、細長い空間の奥から聞こえてくるその音だけを頼りに、私の脳内ではトイレの付近にいると判断しました。


 ―――トイレに入れば音は遠くなるはず。


 その読み通り、一度は音が遮断されたので、ああ、トイレに行ったんだな、と思いました。でも、わりとすぐに廊下に戻ってきたその人は、再び「うぉっ」と声を発しながら、カラカラと滑車の音とスリッパの底を床に擦らせながら、歩いて来ます。


「うぉっ、うぉっ、うぉっ、うぉっ、うぉっ、うぉっ、うぉっ、うぉっ………」


 カラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラ

 ザッ、ザッ、シュッ、ザッ、ザッ、ザッ、シュッ、ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、


 明らかに、こちらに向かって来ています。


 ―――え?


 私は、一瞬考えました。最初に聞いたときはもしかすると、向こう側に向かって歩いていたのかもしれない。病室はこちら側にあって、自分のベッドに戻って来ているのかもしれない、と。


 せまってくる気配。息遣い。


 一定速度を維持したままかなりの距離まで近付いてきました。


 自分の病室の前を通るのかもしれない、と思ったら急にゾッとしたので、余計なことを考えるな、と一度冷静になるように舵を切ったのです。


 その時です。


 廊下のずっと向こう側で、看護師さんの会話が聞こえてきました。


 二人の交わす言葉までは聴き取れなくても、仕事をされている様子がわかるような会話です。


 その間も、謎の人物は廊下を歩き続け、こちらに向かって来ます。


 看護師さんの声が聞こえなくなり、謎の人だけはもうすぐ目の前まで迫って来ていました。


 ドアの前を通る。そう思って、私は布団を深くかぶりました。


 息を止めて、その人が通り過ぎるのをやり過ごそうと思ったのです。


 でも、次の瞬間。


 ぴたり。


 急に、その人は立ち止まりました。とても静かな時間が唐突にやってきて、私は全神経を使って耳を澄ませました。


 静寂を破ったのは、同じ音でした。


「うぉっ」


 その第一声が、ドアの少し手前から聞こえ、私はビクッと震えあがりました。


 カラカラ、キュキュキュ……


 滑車が回転し、すり足のスリッパがターンを切るのがイメージできました。


 その瞬間。


 なんとも言えない匂いが漂ってきたのです。


 髪の毛が焦げたような、マッチを擦った時の香りに近い匂いです。


 私は布団を被っているのに、こんなにはっきりと匂いを感じるなんておかしい、と思いました。


 その人の「うぉっ」という声も、滑車の音も、すり足の足音も遠ざかって行きます。


 やっと息を吐き出して、それでも耳を澄まし続けました。


 その人はどんどん遠ざかっていきます。また、かなりの長い時間をかけてトイレのあたりまで離れて行きました。


 普通に考えれば、自分のベッドがわからなくなってしまったのではないかと思い、顛末が気になります。


 ナースステーションから、速足でサンダルの靴音が巡回を始めても、キュキュ、カラカラ、「うぉっ」という音は鳴りやみません。


 ―――なぜ、看護師さんはその人を構わないのだろう?


 不思議な気持ちで、音に集中していました。


 看護師さんは各病室を視回り、私のベッドも一瞬だけライトを照らしてから次の病室へと急いで行かれました。朝になって、そのことを聞いてみようと思いながら、まだ遠くでその謎の人の気配は続いています。


 看護師さんが視回りを終え、もう一人の看護師さんに「こっちは異常なし」と言っている声が廊下に響いているのに、「うぉっ」という声を出し続けているその人は、またこちらに向かってやって来ています。


 ―――やっぱり、なにかおかしい。


 私はとても嫌な予感に襲われたので、両手の人差し指を耳の穴に突っ込んで目を閉じました。


 朝。


 この病室は、窓辺のカーテンさえ誰も開けないので、明るくなったなぁ程度にしかわからないのですが、朝六時頃の検温に来た看護師さんに向かって「昨夜の廊下を徘徊していた人は誰ですか?」と聞いてみたのです。


 すると、彼女は「ん?」という困った顔をしました。


「ずっと、廊下を行き来している人がいたんです。たぶん、点滴の棒を杖がわりにして歩きまわる人、お爺さんかな。トイレに入ったり、廊下をウロウロしたり……この近くに来たとき、マッチの匂いもしてました」


 私がそう言うと、看護師さんは首を傾げて。


「そんな人はこの病棟にはいませんね」


 と、言ったのです。


「え。でも、看護師さんが見回りに来たときも、廊下に居たじゃないですか」


 「そんな怖いこと言わないでくださいよ……」と、苦笑い。


 私は愕然としました。昼間やってきた夫にもそのことを話すと「病院だし、そういう人もいるんじゃないの」と言うばかりで相手にしてくれませんでした。


 二日目の夜、三日目の夜は平和でした。同じ病室の人が寝がえりをうったときのベットの軋む音以外には、どこかでクシャミをする音ぐらいしか聞こえません。


 真夜中にトイレに向かう患者さんに「大丈夫ですか?」と声をかける看護師さんの声もしていました。


 薬が効いて蕁麻疹が消えていく中。昼間に寝ている時も「うぉっ」という声が聞こえた気がして、ビクッと震えて目が覚めたこともあります。でも、その話を聞いてくれる人は誰もいません。


 ここにいたら寝ていても安全じゃない。そんな気がして、早く帰りたい私は月曜日の回診の際に「もう自分に合う薬がわかってきたのなら、帰りたい」と言ったら「わかりました。今日、退院できるようにします」と言われ、ホッとしました。


 でも、もう一日だけ入院するようになったと看護師さん伝いに聞いて、私はがっかり……。理由は、減らす薬と残す薬をもう少し見定めたい、ということでした。


 落ち込みながら、最後の晩。早めにトイレを済ませて消灯時間を迎えたときです。


 病室と廊下の照明を切った途端に、また。


 また、あの「うぉっ」という声と、すり足の足音と、カラカラという滑車の音が……。



「うぉっ、うぉっ、うぉっ、うぉっ、うぉっ、うぉっ、うぉっ、うぉっ………」


 カラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラ

 ザッ、ザッ、シュッ、ザッ、ザッ、ザッ、シュッ、ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、



 しかも、この前よりもずっと音が大きい気がします。耳元で聞こえているんじゃないか、というぐらいに。私は両手で耳の穴を塞いで、布団を被りお題目を頭の中で唱え続けました。


 その人はこの前の倍程の速さで廊下を移動してくると、私の病室の前でピタリと止まりました。


 そしてまた、あの嫌な臭いが鼻を突きます。


 今日は焦げ臭さの中に、腐った生ごみのような匂いを感じ、胃酸が逆流してきそうなほどの胸やけを覚えました。


 自分の心臓の音が煩くて、鼻で呼吸できない私は、押さえた手の指の隙間から薄く空気を取り込みました。空気が重く、体の上に誰か乗っているんじゃないかというぐらい重たくて、それでも心の中でずっとお題目を唱え続けました。


「うぉっ」


 部屋の中から聞こえ、ビクッと体は反応しましたが、ベッドが軋むことはありませんでした。


 それから、間もなく。


 廊下で、キュキュキュという滑車が回る音が聞こえ、「うぉっ」と声を発しながらその人は反対へと向かって歩き始めました。その間もずっと、私は気を緩めることなく祈り続けました。どんどん遠ざかって行っても、看護師さん達の会話が聞こえても、誰かがトイレに行く音を立てても、その「うぉっ」という謎の人は朝まで廊下を行き来してました。


 翌朝、別の看護師さんに聞いても「そんな人はいない」と言われてしまいました。


 ―――結局あれは、なんだったのでしょう?


 答えを知る人は、誰もいません。



 了


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― 新着の感想 ―
[一言] これ実話なんですか? 書き方が怖がらせなれているというか、怖かった(つд;*) 私は幽霊をこの目でみるまでは信じない主義なんですが(幽霊話は好き)、小説としても分かりやすくて上手いと思いまし…
[一言] 私は霊感というものがないので、 幸いにも心霊現象に遭遇したことはありません。 その病院で過去に亡くなった方なのでしょうか? それにしても、 匂いまで感じるというのは初めて聞いた現象かも。…
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