98 本当の声を、探す
ちゃぷ、ちゃぷと寄せる波の音が聞こえる湖の側近く、二人の少女が交互に歌声を響かせている。
時刻は午後五時半を過ぎた。
油彩のように、重たげな波模様の向こう側。
空の端にかかる菫色の山並みの稜線を、沈む陽が華やかな鬱金の一幕に染め上げている。残照が、同じ色を静かにゆらめく湖へと投げ掛けた。
ゼノサーラの喋り声はよく通る、存在感のある響きだった。どちらかと言うとやや低い。
逆に裏声だと、すべての音程が少し高めにずれる。狙うべき音よりも、ほんの少し上擦ってしまうらしい。
――それを「音痴」と評して良いのかどうかは、正直なところエウルナリアにも分からないのだが……
本人は、音がずれてしまうことに苛立ちを顕にしている。
(歌ってても楽しくない、というのが一番いただけないのよね…)
伏し目がちになった黒髪の少女は、曲げた人さし指を唇の下にあてて暫く考え込み――ぐっ、と決心してから「あの……」と、切り出した。
「殿下、地声で歌ってみましょう。
可能な音域で、喋るときのように真っ直ぐ。喉はひらいて負荷をかけないように。肩の力を抜いて、腹筋と下半身で支えるんです。音程は多少低くなっても構いませんから。
…普通の音階発声で結構です。どうぞ?」
僅かな時間ではあったが、歌の指導を始めてからバード家の令嬢からは、遠慮というものが消え失せた。
ゼノサーラは迫力に呑まれ、つい応じてしまう。
「え、えぇ…わかったわ」
――紅の視線を再び湖へと戻し、瞼を閉じる。
すぅ、と口から息を吸い―――怖々と。やがて伸び伸びと大きく、響かせ始めた。
……アーーー……
アーーー、
アーーーー
アーーーーーー……
エウルナリアはそれを、じっと不動の姿勢で見守る。呼吸の揺れや姿勢の有りよう、表情の歪みひとつも見逃さないと観察し――確信を得て、微かに頷いた。
(うん。まだ慣れてないけど、明らかに音程の中心に当たってる。芯もある……殿下は、こちらの歌い方のほうが合ってる)
一オクターブの音階を地声で歌い終えたゼノサーラは、しばし固まって沈黙したあと口を閉じ、心持ち紅潮した顔で傍らの少女に視線を流す。
「どうよ?」と言わんばかりの爛々とした表情である。彼女は思わず微笑んだ。
「お上手でした、殿下」
エウルナリアの一言に銀細工の姫君は、生じた喜びを隠しきれず、紅玉の瞳をじわじわと見開いた。
* * *
あの後すぐ、皇女の侍従とグラン、レインが連れだって崖下の公園まで迎えに来たため、今日の抜き打ちレッスンは終わりを告げた。
「これからは、日を決めて防音室を借ります。付き合うように」
――…と、別れ際、一方的な通告を受けたような気もするが、さほど速度のない緩やかな馬車の揺れは妙に心地よい。睡魔を刺激されたエウルナリアは、誘惑に負けてうつらうつらと舟を漕いでいた。
先ほど、ずっとレインとともに待っていてくれたグランを無事、シルク男爵邸に送り届けられた――その、気の緩みもある。
眠そうな少女は、口許に手を当てて「ぁふ……」と小さく欠伸を漏らし、ややぞんざいに目を擦った。
正面の席に座するレインは、そんな主を見咎めて苦笑する。
「また、ご無理をなさいましたね」
「うん…」
「ずいぶん、お呼びが掛からないから心配しましたが」
「…ん……」
――だめ、もう限界。
何度目かの睡魔の波に飲み込まれた少女は、かくりと派手に傾きかけた。瞼は、とっくのとうに落ちている。
しかし……―――
「失礼します」
笑みを含んだ声を向かいの座席に残し、従者の少年が立ち上がる気配がした。そのまま歩み、主の隣へと腰を降ろす。
眠くてしょうがないエウルナリアは、慣れた感触のやさしい手が、そっと自分の頭部を引き寄せるのを知覚した。
――あくまでも、ぼんやりと。
「……お屋敷に近くなったら、起こしますね」
「…う、ん……」
細身だと思ったレインの肩は、半ば朦朧とした少女が体重をかけても、びくともしない。
揺るがない温もりと安心感に、本格的な眠りに落ちるまでは数分とかからず――
エウルナリアは辛うじて、唇の動きと僅かな吐息だけで「ありがと…」と、呟いた。
「…………どういたしまして」
――――従者の少年の瞳に潜む、揺らめく色彩と熱の在処を、主の少女は未だ感覚として知らない。




