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楽士伯の姫君は、歌わずにいられない  作者: 汐の音
十四歳篇 学院での日々

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98 本当の声を、探す

 ちゃぷ、ちゃぷと寄せる波の音が聞こえる湖の側近く、二人の少女が交互に歌声を響かせている。


 時刻は午後五時半を過ぎた。

 油彩のように、重たげな波模様の向こう側。

 空の端にかかる菫色の山並みの稜線を、沈む()が華やかな鬱金(うこん)一幕(いちまく)に染め上げている。残照が、同じ色を静かにゆらめく湖へと投げ掛けた。



 ゼノサーラの喋り声はよく通る、存在感のある響きだった。どちらかと言うとやや低い。

 逆に裏声だと、すべての音程(おんてい)が少し高めにずれる。狙うべき音よりも、ほんの少し上擦ってしまうらしい。


 ――それを「音痴」と評して良いのかどうかは、正直なところエウルナリアにも分からないのだが……

 本人は、音がずれてしまうことに苛立ちを(あらわ)にしている。


 (歌ってても楽しくない、というのが一番いただけないのよね…)


 伏し目がちになった黒髪の少女は、曲げた人さし指を唇の下にあてて(しばら)く考え込み――ぐっ、と決心してから「あの……」と、切り出した。


「殿下、()()()歌ってみましょう。

 可能な音域で、喋るときのように真っ直ぐ。喉はひらいて負荷をかけないように。肩の力を抜いて、腹筋と下半身で支えるんです。音程は多少低くなっても構いませんから。

 …普通の音階発声で結構です。どうぞ?」


 僅かな時間ではあったが、歌の指導を始めてからバード家の令嬢からは、遠慮というものが消え失せた。

 ゼノサーラは迫力に呑まれ、つい応じてしまう。


「え、えぇ…わかったわ」


 ――(くれない)の視線を再び湖へと戻し、瞼を閉じる。

 すぅ、と口から息を吸い―――怖々と。やがて伸び伸びと大きく、響かせ始めた。



 ……アーーー……

    アーーー、

      アーーーー

        アーーーーーー……


 


 エウルナリアはそれを、じっと不動の姿勢で見守る。呼吸の揺れや姿勢の有りよう、表情の歪みひとつも見逃さないと観察し――確信を得て、微かに頷いた。


 (うん。まだ慣れてないけど、明らかに音程の中心に当たってる。芯もある……殿下は、こちらの歌い方のほうが合ってる)


 一オクターブの音階を地声で歌い終えたゼノサーラは、しばし固まって沈黙したあと口を閉じ、心持ち紅潮した顔で傍らの少女に視線を流す。


 「どうよ?」と言わんばかりの爛々とした表情である。彼女は思わず微笑んだ。


「お上手でした、殿下」


 エウルナリアの一言に銀細工の姫君は、生じた喜びを隠しきれず、紅玉(ルビー)の瞳をじわじわと見開いた。




   *   *   *




 あの後すぐ、皇女の侍従とグラン、レインが連れだって崖下の公園まで迎えに来たため、今日の抜き打ちレッスンは終わりを告げた。


「これからは、日を決めて防音室を借ります。付き合うように」


 ――…と、別れ際、一方的な通告を受けたような気もするが、さほど速度のない緩やかな馬車の揺れは妙に心地よい。睡魔を刺激されたエウルナリアは、誘惑に負けてうつらうつらと舟を漕いでいた。


 先ほど、ずっとレインとともに待っていてくれたグランを無事、シルク男爵邸に送り届けられた――その、気の緩みもある。


 眠そうな少女は、口許に手を当てて「ぁふ……」と小さく欠伸(あくび)を漏らし、ややぞんざいに目を擦った。

 正面の席に座するレインは、そんな主を見咎めて苦笑する。


「また、ご無理をなさいましたね」


「うん…」


「ずいぶん、お呼びが掛からないから心配しましたが」


「…ん……」


 ――だめ、もう限界。

 何度目かの睡魔の波に飲み込まれた少女は、かくりと派手に傾きかけた。瞼は、とっくのとうに落ちている。


 しかし……―――


「失礼します」


 笑みを含んだ声を向かいの座席に残し、従者の少年が立ち上がる気配がした。そのまま歩み、主の隣へと腰を降ろす。

 眠くてしょうがないエウルナリアは、慣れた感触のやさしい手が、そっと自分の頭部を引き寄せるのを知覚した。

 ――あくまでも、ぼんやりと。


「……お屋敷に近くなったら、起こしますね」


「…う、ん……」


 細身だと思ったレインの肩は、半ば朦朧とした少女が体重をかけても、びくともしない。

 揺るがない温もりと安心感に、本格的な眠りに落ちるまでは数分とかからず――


 エウルナリアは辛うじて、唇の動きと僅かな吐息だけで「ありがと…」と、呟いた。



「…………どういたしまして」



 ――――従者の少年の瞳に潜む、揺らめく色彩(いろ)と熱の在処(ありか)を、主の少女は未だ感覚として知らない。


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