97 皇女陥落
「エルゥ様」
「ん」
―――来た。
窓側から眼下のレガート湖を見ていたレインが、ふと主を呼んだ。
エウルナリアは速やかに反応する。
さ、と不躾にならぬ程度の素早さで席を立ち、螺旋階段に向けて足を踏み出すと――くるりと制服のスカートの裾を揺らして振り返った。
「じゃあ、行ってくるね。レイン、ごめん。その本……」
「大丈夫。戻しておきます」
「すぐに、遠目に合流できるとこまで行く。気ぃつけろよ」
台詞を皆まで言わずとも、全てを察してくれる従者の少年と赤髪の友人に一つ微笑み、「ありがとう」と呟いた令嬢は、ぱっと踵を返した。ふわり、と残像を結ぶように背の黒髪が彼女の動きを追いかけて、靡く。
コン、コン……と、微かな足音とともに、エウルナリアは華奢な階段を伝い、搭を降りていった。
“――皇女様はね、いつも学院が終わったあと、皆が帰ってから寄る場所があるんだよ。夕暮れ時に、西塔の空中フロア、下から四番目の小窓を覗いてごらん。たぶん、見つかる”
今朝、父が軽やかに朗じた、謎解きの詩のような一節を思い出しながら。
* * *
図書の搭は、すぐ側に湖を臨む、せり出した崖の上に建っている。
崖の下には直に湖に触れられる、細長く小さな公園があった。崖からは、備え付けの石造りの階段で誰でも安全に降りて来られる。ただ、異様に長い。
階段を全て踏破したエウルナリアは、皇女の足跡を辿るように、そっと裏庭っぽい雰囲気ただよう、その場所へと降り立った。
――誰もいない。
(お供の方も、しょうもないこと……『仰せのままに』だけが、従うものの務めでもないのに)
日頃なにかと予想を裏切り、主をいいように翻弄する従者の少年を見ているためか、エウルナリアの、皇女付きの者達への評価は辛い。
そもそもレインなら、主がどれほど言おうと必ず供をする。エウルナリアも、結局折れる。互いに「頑固なひとだ」と思い合うのは露知らず、バード家の若い主従は仲が良い。
黒髪の少女は景色の中に、光を弾く銀の髪を探す。
上の広い公園ほど手は入っていない、不揃いな下草と芝生の土を、黒い靴で踏みしめる。
間違えて小枝など踏んだりしないよう、慎重に…
やがて、音をたてぬよう気遣う少女の耳に、風に乗って幽かな歌声が届いた。
――女声。裏声だ。
……でも、あまり上手くない。何というか……
少女は、おそるおそる歌の方向へと足を進めた。
――――…が。
「ああぁ、もうっ!音痴!!わたしの馬鹿あぁーーーっっ!!!」
(―――!)
突然の大絶叫に、思わずビクッと肩が跳ねる。
少女も内心で言い辛かったことを大胆に叫んで見せたのは、疎らな木立の向こう――舟影ひとつない湖上に懸命な歌声を響かせていた銀の姫君、その人だった。
ふむ、とエウルナリアは考える。
それって……
迷う猶予もなく、足は動いた。
ついでに言葉も、さらりと口をついて出てしまう。
「ゼノサーラ様。『音痴』ではありませんわ。歌い方が合っていないだけなのです」
ざ、と勢いよく木立を抜けて、すたすたと黒髪の少女は皇女殿下に歩み寄る。
思うと同時だ。考える余地などない。愛らしい顔は、今は決然とした意思に満ちている。
なるほど……と、合点がいった。
アルムが娘に託すのも道理、男声と女声では発声の仕方が根本的に違う。アルムは知識としてわかっていても、感覚では知り得ない。
昨日とは打って変わって、昂然と笑みもせず、真剣な面持ちのエウルナリアに、ゼノサーラは呆然と佇む。銀の髪が夕映えを受けて、淡く緋色の光沢を放っている。
綺麗だな、と思った黒髪の少女は、つい微笑んだ。
硬直していた皇女の呪縛も、ようやく解けた。わなわな、と口をひらく。
――今日は大人しい。
「あ……貴女…いつから、居たの?」
「殿下の歌を、耳にする少し前から」
けろり、と言ってのけたことに他意はない。
だが、眼前の皇女の顔色は凄かった。青から赤へ――それから、白。
(驚愕、羞恥、絶望……かな)
何となく、アルムがこの皇女様を放っとけない理由がわかったエウルナリアは、困り顔ではあるものの、青い瞳にあたたかな光を滲ませ、ふわ…と羽が舞うように優しく笑み綻んだ。
小首を傾げる仕草まで、うつくしい。
「あの。よろしければ少し、お話しません?」
――太刀打ちできない。
黒髪の歌姫の、やさしさの向こう側。
巌のような揺るがなさを悟った皇女は、実に渋々といった体で肩を落とし――――…ぼそりと呟いた。
「………いいわよ。なに、アルムの差し金?」
沈む夕陽より澄んだ紅の視線がゆるゆると、エウルナリアに向けられた。




