96 西塔にて。線を引く
時刻は午後四時。斜陽の気配はまだ遠い。
下校時刻を過ぎた学舎は、しんと静まり返っている。
エウルナリアはレインとグランを伴い、西塔――更なる別名を《図書の塔》というらしい――に訪れた。ロゼルは、今日は別行動。もう帰宅した頃合いだ。
《図書の搭》の造りは面白かった。
床のある部分では壁をぐるりと一面の本棚が埋め尽くし、中央は高い、高いとんがり屋根の天井裏まで吹き抜けとなっている。
登るものと降りるものが辛うじて擦れ違える程の幅しかない、塔の大きさに対しては華奢に感じる手摺を伴う螺旋階段が、まるで天への階のように延々と最上階まで続いている。
所々にロフトのような閲覧スペースや専門書区域が設けられており、自然と目的に応じたもの達が住み分けできる仕組みだ。
勿論だれも落ちないよう、全てにおいて高めの手摺が設置されている。
一階は一般書の類い。中央は司書のフロア。検索や案内、貸し出し及び返却はこちらで行う。
今は三名の司書が、届け出を済ませて居残った生徒達の対応をしていた。
――が、ひと気はそもそも少ない。
足元はふかふかの緑色の絨毯。エウルナリア達は、塔の中を探険した。
「ここ、楽しい…」
黒髪の少女は、つい、わくわくと昂る気持ちのままに呟いた。隣で栗色の髪の少年が、困ったように灰色の瞳を細めて微笑んでいる。
――かれは学院の制服姿だと、従者であることをたまに忘れるほど距離が近い。
「エルゥ、こっちじゃないか?バード卿が教えてくれた場所」
ぐい、と肩を抱くように、少年のわりに大きな手がエウルナリアをその場から引き離した。
確かに、かれが闊歩する方向には小さめの窓と四人掛けの机と椅子が置いてある。
――……だが、近すぎる。これは、抱き込まれてると言って差し支えない。
少女は小走りになりながらも、抗議の声をあげた。あくまで、囁くように。
「そうだねグラン……でも、あの。これ…子どもの頃の誓いに反してません?」
やんわりと「離して?」と告げたつもりだったが、見事に流された。
「残念。いまの俺には剣がない。ただの、エルゥの同級生で幼馴染み…だろ?」
凛々しい眉を時々隠し、今は少し切なそうな紺色の瞳を強調する赤い前髪が、問いかけと同時にさらっと揺れる。
こうして至近距離で見上げると、グランの、鋭利な印象の整った顔立ちがくっきりと視界に入る。しかし、なにかが引っ掛かった。
(何だろ…誓約破棄宣言にしては、自棄っぱちというか……ん。自棄?)
つ、と徐に足を止めたエウルナリアにつられて、グランも「おっと」と、立ち止まる。
訝しげな赤髪の元騎士見習いに、黒髪の令嬢はぴた、と視線を定めた。
青い、青い瞳が目の前の自分だけを映す――この瞬間に、グランは滅法よわい。
エウルナリアはここが《図書の搭》であることを考慮し、吐息に僅かな声を乗せるように、控えめに話し始めた。
「ただの同級生で幼馴染みじゃない。大事な、得がたいひとで友達だと思ってる。好きだよ。
……勿体ないことに、私に求婚してくれてることも、ちゃんと分かってる。
だから……グランはグランのままでいて。私に左右されたり、しないで?」
抑えた、甘く澄んだ声音。
偽りない本心だからこそ、はっきりと意思を乗せた、きれいな発音。
足元の絨毯に吸い込まれてしまうほど小さな響きだったが、エウルナリアの声はどうしても耳が拾ってしまう。それが彼女の才なのか、自分が惚れすぎているだけなのかは、判断に苦しむところだが……
グランは、じわじわと胸を圧迫する甘い熱と鈍い痛みを、ごく浅い嘆息で逃がした。深く考えてしまいそうになる前に、さっと潔く観念する。
――口許が、勝手に微苦笑の形になった。
「はい、姫君」
目を瞑り、小さく諸手をあげて降参の姿勢をとる長身の友人に、エウルナリアは申し訳なさそうな、せつない笑みになる。
まだ、答えを出せないからこその一線を、彼女は引いた。
「…ごめんね、グラン殿」
「謝んな。それは、まだ早いだろ。な?レイン」
芯のつよい少年は、やや離れた場所で控えていた恋敵かつ親友に、つとめて明るく声をかけた。
この明るさとつよさ、真っ直ぐさは、紛うことなくかれの美点だ。
「……ですね、グラン」
栗色の髪の、最近は弁のきつい少年も、今は素直に応じた。一瞬、思案げな表情をし、「さ、席で掛けて。待ちましょう」と従者らしく着席を促す。
時刻はやがて午後四時半。
西に面した小窓から、傾きかけた陽射しが差している。
曇り空から晴れ間が見えて、眼下のレガート湖を柔らかく照らした。




