92 沈黙の鞘当て
学院生活が始まった。
希望者は寮に入れるが、エウルナリアは馬車での通学を希望した。隣家の親友ロゼルと同伴できるのが嬉しいし、何より、入寮すれば従者のレインと離ればなれになってしまう。それは寂しいと思えたから。
(レイン…本気で独奏者、目指すのかな)
見るともなく頬杖をつきながら、左隣に座るかれの、整った横顔に目を向ける。
窓際の朝陽を浴びて、つやつやと栗色の髪が光を弾いている。いつもは気軽に触れる、すっきりと括って一纏めにされたそれに、手を伸ばしかけたエウルナリアは「はっ」と気づいて途中で引っ込めた。
――だめだめ、ここは邸じゃない。
今は、一般教養科目のうちの一つ、歴史の講義の真っ最中。新入生はほぼ全員、広い教室で静かに着席しつつ、それぞれの姿勢で講義に耳を傾けている。
教壇が最も低い位置にある、階段で半円のすり鉢状となった部屋で、五十代ほどの男性講師が朗々と声を張りつつ、背後の壁に取り付けられた深緑の黒板に白いチョークで板書きをしていた。
生徒は、後ろに行けば行くほど視界が高くなる席となっている。備えられた長机は五人掛け。それが横に半円を描くように五席、縦に九席ずつ整然と並んでいる。
エウルナリア達はその最後列、左端の机に陣取っている。窓際からレイン、エウルナリア、ロゼル、グランの順だ。
学舎の入り口の両脇に聳えた、とんがり屋根の大きな尖塔。その右側――東塔と呼ぶらしい――の、一階部分にあたる半円の教室。朝は、大抵ここでの一般科目から始まる。
一つの講義に四十五分。休憩は十五分。昼休憩は一時間で、午後は自分で選んだ専科の教室にそれぞれ移動する。専科は二時間。
午前八時から午後三時までは、休息日を除いてずっとこの調子――それも、二週間経った。
講義の内容自体は十歳より前に終わらせているため、本当は聞くまでもない。気が緩んでいるのは否めなかった。
主の視線に気づいたのだろう。ひとつの瞬きのあと、レインは灰色の視線をそろり、と右側に流した。
「(どうか、なさいましたか?)」
目が合った瞬間。
ふ、と瞳の光が和らいだ。
見ているこちらまで口許が綻んでしまうような、綺麗な微笑みだ。かれは周囲を気遣い、小声で話しかけてくれた。
エウルナリアは、ゆるく頭を振った。どうもしない、の意味だ。
「(ちょっと退屈でね)」
同じように声を潜める。
レインは目許を眩しそうに細めてから、まじまじと傍らの少女を眺めた。
――しあわせそうに。
「(それで、貴女の関心を独り占めできたなら嬉しいですね。
……僕は、あれから夫候補に近づけましたか?)」
容赦のない少年は、にっこりと満面の笑みとなる。
「――……!!」
従者の不意打ちに思わず声をあげそうになったエウルナリアは、頬を染めた。物言いたげな唇から、ちらりと桃色の舌と白い歯が覗く。
大きな青い瞳は色合いを鮮やかに見開かれ、ただレインだけを映している。
――それは、従者の少年の心に、ひどく愉悦をもたらした。歓喜と言っていい。
が、その時。
とんとん、とロゼルの手がエウルナリアの右肩をたたいた。
(ん?)
振り向くと、教科書に視線を落としたままの親友が、机の下から一片の紙をこちらに寄越すところだった。
そのまま机の下で受け取り、そっと机上にて確認する。レインも左側から覗き込んだ。
“次の時間は、レインと場所交代な
あと、悪い。聞こえてるから注意しとく”
――グランの筆跡だ。
エウルナリアは、ぶわっと変な汗が出るのを自覚した。
尚、赤面する黒髪の少女の隣で、従者の少年は顔色ひとつ変えない。紙片を覗き見た近さのまま、主の左耳に涼しげな顔をすぅっと寄せてゆく。
「(じゃあ、これくらいで)」
先程より、よほど潜めた吐息がほんの少しの声音を伴って、少女の耳を擽った。
「~~~ッ……!!!」
反射でぞくっと身震いしてしまったエウルナリアは、涙目になって、弱々しく机に突っ伏した。黒髪に隠れているが、耳が熱い。
声なく叫ぶ哀れな親友の後頭部を、右隣のロゼルが「よしよし」と言わんばかりに優しく撫でている。
それは、どこから見ても気心の知れた令息に慰められる令嬢の図で―――知らぬものが見れば「お似合いですね」としか言いようがない、一枚の絵。
「……」
「……」
机の左と右の端。レインとグランは視線を合わせ、互いにやたらと良い笑顔を交わした。




