91 皇王と歌長
あれから、皇王の挨拶も交えた式典は粛々と進み、滞りなく終了した。
名を《芸術》と冠するきらびやかな学院ではあるものの、意外にも質実剛健を旨とするレガートらしく、無駄な長話などは誰もしない。三十分と掛かっていないだろう。
総じて祝辞を述べられ、学院で過ごすにあたって必要な心構えをいくつか説かれただけ。
新入生を一時に集め、視覚化して全容を確認する――それだけの意味合いともとれた。
ただ、壇上の皇王とエウルナリアは、やたらと目が合った。目が合うたびに、にこっと微笑まれるものだから、新入生らの陛下への印象は「穏やかで優しい方」の一色となりつつある。
「……ただ、お優しいだけの方ではないと思うのだけど…」
エウルナリアはつい、ぽそりと独り言ちた。
――柔らかそうな白銀の髪、琥珀色の瞳の壮年の男性、レガート皇王マルセル。穏やかな眼差し、気品漂う物腰。そこに佇むだけで辺りを光で払うかのような、公明正大な威を静かに放つ、稀有な人物だった。
父よりも年上だが、学院時代の友という。
アルムが中々、皇宮から帰れないのはマルセルその人が引き留めるからだと、聞いてはいたが…――
ざわめきの中、耳聡く主の呟きを聞き拾ったレインは、怪訝そうな少女の顔を右隣からそっと覗き込む。
栗色の後れ毛が、頬の横でさらりと揺れた。
「今まで、皇王陛下とご面識はなかったんですか?エルゥ様」
「えぇ。お父様が『必要ない』と仰って…『父娘で家に帰れなくなるのは困る』と」
「あぁ…仰る意味はわかります。ありそうなことですね」
「?……そう?」
解せぬ、と言いたげな表情のエウルナリア。
――と、その時。それまで静かに主従の会話に耳を傾けていた左隣の長身の少年が、「よっと」と、勢いをつけて立ち上がった。
「そんくらいにして、次行こうぜ。美術科と音楽科に別れての専科別説明会だろ」
主従は「そうだった」と顔を見合わせ、にこりと笑んで、同時に席を立った。
周囲のひとの波は、動き始めている。
* * *
時はそれより少しあと。
五つの尖塔が連なる優美な石造りの城、その一室に、皇王マルセルの上機嫌な様子に渋面をつくる黒髪の歌長――アルムの姿があった。
言わずとも知れる。念願叶って楽士伯秘蔵の愛娘――エウルナリアを、その目で確認できたからだ。四十は過ぎているくせに、こういうところはいつまでも邪気がない。鼻歌まで歌いかねないほど、機嫌が良い。
アルムは渋面のまま告げた。
「陛下、はやく片付けないと国府長官の御前会議に間に合いません」
「はいはい」
軽い調子で、マルセルは机上の書類をぱらぱらと捲り始めた。たまに、ぴたりと止めては何かを記入し、また捲る。見終わればそっと閉じ、表紙に皇王御璽を押した。印を押す、どん、という重い音が室内に響く。
机上には、そんな冊子があと二冊。
手を動かしながらも、マルセルは楽しげに口を開いた。端正な顔が跡形もなく相好を崩している。
「いやぁ。本当に綺麗な子だよね、エルゥちゃん。うちの子になってくれるなんて嬉しいよ」
「勝手に決めないでください」
アルムは、基本的に皇王に素っ気ない。
嫌いではないのだが、学院生だった頃から一方的に構い倒されている自覚がそうさせている。
嫌いではない――それは、黒髪の歌長にとってはほぼ、好きと同義語なのだが、本人は中々認めない。
マルセルは、アルムのそんな気性や才覚、容姿全てを引っ括めて気に入っている。それゆえの側近扱いだった。
今度は何も記入しない。どん、と印を押す音のみ響く。白銀髪の皇王は、机上の最後の一冊を手に取った。
ぱらぱら……と、再び紙を捲る軽い音。
「でもねぇ、うちの二番目と三番目はいい男になると思うよ?あぁ、一番目もね」
「殿下がたの将来性は勿論、認めますが……それ、ただの親馬鹿ですよね?」
「ひどいなぁ」
くすくす、と貶された皇王は笑った。笑いながら、何かを書き付ける。今度は少し長い。しばし、黙って熟考した。
皇王の執務室に静寂が満ちる。
――と、再びペンを走らせる音が鳴り、冊子はぱたんと閉じられた。御璽は押さない。
「はいこれ、やり直し。外交府長官に『ふざけんな』って言っておいて」
「……私は、芸術府の人間なんですが?」
受け取りつつも、濃い緑の目を細めてゆるく小首を傾げた。笑みを象る口許に、無駄に色気が漂う。
歌長の親友を自認する皇王は、にこやかに告げた。
「嘘つけ。すっかり掌握してるくせに。この外交府特使どのは本当に、ひとが悪いね」
口ぶりに反して、ひどく機嫌が良い。
朗らかな雰囲気のまま、マルセルはかたん、と椅子から立った。「じゃ、行こうか」と速やかに扉に向かう。
「御意に」
アルムは、す、と瞼を半ば閉じ、伏せた顔に綺麗な笑顔を刻んだ。
面をあげ、背筋を伸ばして凛と立つ。前をゆく主君に従うべく、洗練された足運びでゆったりと後を追う。
ぱたん、と扉が閉じられた。




