88 愛称を、そのままで
結婚式の帰り道、馬車の中にて。
エウルナリアは、薔薇色の頬で夢見るように、今日の余韻に浸っていた――主に、花嫁のうつくしさや、新郎との睦まじさなどについて、だが。
向かいの席で主の心情を正確に汲んだ従者の少年は、あえて何も言わずに微笑んでいる。
――が、ふいに、ガタン!と馬車が揺れた。
体勢を崩して、進行方向に華奢な身体がふわりと浮いてしまった主の少女に、レインは思わず手を差し出した。
投げ出されたエウルナリアを、咄嗟に座席から降りて受け止めた形になる。
思わぬ近距離に黒髪が鼻先をかすめて、淡く花の香りがした。
「ご、ごめん!レイン、大丈夫?」
「あ、はい。大丈夫じゃありません」
「…………えぇぇっ?!」
馬車は、何事もなかったかのように、再び揺れだした。馬が何かに驚いたか、車輪が石に引っ掛かりでもしたのだろう。
箱馬車の中で、座席から降りた中央。
傍目には黒髪の令嬢が、栗色の髪の従者に抱きしめられているように――見えなくも、ない。
まぁいいか……と思ったレインは、そのまま腰を落として座り込み、更に深くエウルナリアを引き寄せた。ぎゅ、と細くやわらかな肢体を腕の中に包み込んでしまう。
エウルナリアは、状況に焦りつつも、従者の少年に慌てて問いかけた。
「れ、レイン?本当に大丈夫じゃないの?どこか痛い?」
「はい。痛いです」
(いろいろと)
「大変…!立てる?ここじゃ休まらないよ。こっちの座席、来て?」
「無理です……動けません」
(暫く、このままで居たいんです)
頑として動かないレインに、エウルナリアが段々、冷静になってきた。ひょっとして――
「…ねぇ、また暴走してない?」
「通常運転です。お気になさらず」
「……やっぱり。意地悪、離して!」
身を捩ったが、いっこうに抜けられない。
いくら、レインが細身とは言え体格と力の差はどうにもならなかった。
諦めず、抵抗を試みたが――
「聞いて、ください。エルゥ
…―――様」
一瞬、愛称をそのまま呼ばれたのかと思った少女は、心臓をどきりとさせた。
つい反射で「なに?」と、訊いてしまう。
「もし――僕が、学院在学中に、皇国楽士団のピアノ独奏者になれたら――
僕を、貴女の婚約者候補として考えてくれますか?」
「―――…!」
心臓が跳ねた、どころではない。熱い。
頭は冷水をかけられたみたいに、ショックで真っ白になっているのに、身体が内側から燃えてるみたいだ。
レインは、腕の中が急に熱を帯びたことに気づいて、そっと主の顔を覗き込む。
長い睫毛を伏せて、潤んだ青い目を泳がせる――困りきった赤面に、しばし目を奪われる。
「……返事は、今でなくてもいいです。どうか、覚えていてください。
僕は、貴女を“エルゥ”と呼べるようになるためなら、どんな努力も厭いません」
す、と彼は少女の左手をとり、指に口づけを落とすと、そのままじぃ……っと、青い目をつよく見つめた。
いつもは涼しい灰色の目許に、静かな熱が潜んでいる。苦しそうですら、ある。
ややあって、主を元の座席まで導いたレインは、何事もなかったかのように自身も元の席に戻った。瞑目し、何も喋らない。
変わらず響く、蹄の音と、カララ……という車輪の音。
耳まで真っ赤になった黒髪の少女は、視線を窓の外に固定し、両手で口を押さえたまま、バード邸に帰着するまでずっと、動けなかった。
―――……大切な日の最後の一幕は、エウルナリアがずっと目をそらし続けていた、波乱の予感で彩られた。
件の学院は、愈々、五日後から始まる。




