87 祝福の歌
居並ぶ人びとは、はじめ、気がつかなかった。
待ちに待った、花嫁の登場に沸き立つ親族や、友人達。
礼拝堂の入り口を背に向かって右側。開いた両開きの扉から、父であるユーリズ学問準男爵に伴われ、娘のアリスが祭壇に向けて、一礼する。
そこで―――……人びとは、耳に何かが届いたのを、知った。
高い、高い天井の上から響いてくる声だ。
決して大きくはない。むしろ、耳をそばだてなければ聴こえないほどの、抑揚をなるべく抑えた響き。しかし、柔らかい。
誰かが、目を瞑った。
誰かが、胸を締め付けられた。
―――コツ…、コツ…、と。
ゆっくりと、一歩ずつ静かにヴァージンロードへと進む、ひそやかな靴の音。伴奏はそれだけ。
天上の調べなどと、言うのもおこがましい。
類い稀なる声――…例えようがない。
誰かが、ふいに泣きたくなって、口許を手で抑えた。悲しいのではない――震えがくるほどの、歓喜で。
声は……歌声だった。ひとの声だと、理解があとから追い付いた。
まだ若い。…少女だろうか。音の高さによっては、とても中性的な響きを帯びる、不思議な声だ。
透明で、切ない。敬虔で、どこかおごそかですらある。不可侵なものを感じさせる歌声。
誰も、何人たりとも彼女の歌は妨げられない。
耳を酔わせ、心に、体に、沁み渡るほどの幸福感をもたらすそれに、人びとは、しばし意識を委ねる。
……コツ…、コツ…、と。
いつの間にか花嫁達が、ヴァージンロードの中ほどに差し掛かった。
歌声に少し、愛らしい喜色が混じる。
そこでようやく、人びとは礼拝堂の最奥、祭壇の横に佇み、歌い上げる白い祭礼服の少女に気がついた。
小柄だ。だが、ほんとうの子ども、ということもない。女性への過渡期特有の、繊細な透明感を漂わせる少女。だが、声には確かな芯がある。
―――――……やがて、歌は繰り返しの、最後の1フレーズへ。
いっそう潜められて、囁くようにちいさな歌い始めに。
誰かが、ぶるりと背を震わせた。
誰かが、観念して一筋の涙をこぼした。歌の終わりを察して。…満たされた胸の裡から光に似たなにかが溢れて、ゆき場をなくしたから。
……コツ。
花嫁は、父の手を離れ、待ちかねた新郎の手をとった。
ヴェール越しに見つめあう二人は、おそらく今、この地上で最も幸せな二人だ。
居並ぶ人びとは、得がたい瞬間に立ち会えた喜びをかみしめる。
徐々に小さくなる歌声を聴きながら。
その、絹のように滑らかな余韻を胸に残しながら。
今日、この日。
老司祭の厳かな口上と宣言により、アリス・ユーリズ女史と幼馴染みの君は永の年月を実らせ、皆の祝福を受けて晴れて夫婦となった。
マリア・カラスのシューベルト、アヴェマリア(イメージ)でよろしくお願いします。拙筆が、もげそうでした。力不足ですみません…




