86 お忍びの本番、その舞台裏
本気で歌うけれど、声を張ったりはしない。
あくまでも主役は新郎と新婦のふたり。特に花嫁はこの日、もっとも輝くのだから。
エウルナリアは少女用の聖職者の祭礼服を身にまとい、特徴のある、艶やかに波打つ黒髪をすべて白地に金の装飾が施されたフードの中に隠した。前髪の生え際も見えぬほど、深く被る。
――よし、準備万端。
コツ、コツ、と長い廊下を行く。
少女の少し前を、慶事の祭礼用の長衣を着こなした老司祭が厳かに歩いている。
が、その歩みがぴたりと止まった。
「?」と、少女は首を傾げる。
「……本当に宜しいのですか?エウルナリアどの。招待客の一人として、ご身分をつまびらかに歌われても良いのですよ?何もそこまで、隠さずとも」
白い眉に埋もれた優しい鳶色の目が、気遣わしげに後ろを振り向く。
エウルナリアは少しだけ、フードを捲った。――足元しか見えぬほど、深く被っていたから。
「いいえ、司祭様。これでもまだ足りないほどです。本当は、姿も見えなくしたいくらい。でもそれでは、却って不自然ですもの」
にっこりと笑う。
笑顔の下、小揺るぎもしない意思の固さを見抜いた老司祭は、「そうですか…」と弱く苦笑した。
再び響く、靴音。
少女の斜め後ろに控えて歩いていたレインは、老司祭の言い分もしょうがないかな、と内心で苦笑した。
(司祭様は、エルゥ様の本気の歌声をご存じない。斯くいう僕も、一曲通してなんてこれが初めてなんだから)
心が沸き立つ。
選んだ曲は、知っている。誰もが知る、緩やかな旋律のやさしい祝福の聖歌だ。
珍しくわくわくと表情を弛ませる従者の耳に、彼を呼ぶ、甘く澄んだ声が聞こえた。
「じゃあね、レイン。私の分もユーリズ先生の晴れ姿、じっくり目に焼きつけてちょうだい」
栗色の髪の少年は、微妙に脱力して、今度こそ苦く微笑んだ。
「……努力します」
貴女のほうが、気になるに決まってるでしょう?――という心の声は封印する。
ふふ、と囁くような笑い声を溢して、少女は老司祭と共に祭壇側の扉へ。少年は、長椅子の並ぶ招待客側の、廊下の端の扉へ。
主従は、別々に同じ礼拝堂に入った。
* * *
礼拝堂の中は、少しひんやりとしていた。
壁を埋め尽くす尖塔アーチのステンドグラスの向こう、木々の緑が揺れている。
射し込む光は柔らかく、結婚式に集まった新郎新婦の親族や、友人達が談笑する温かなざわめきに包まれている。
そこから離れた祭壇側の控えの椅子に、エウルナリアはそっと腰を下ろした。
衝立があるので、この辺りは招待客から見えない。
老司祭は、立ったまま少し屈み、小声で少女に話しかけた。
「では、私はあちらの祭壇手前で、新郎とともに花嫁とその父を待ちます。エウルナリアどのは、あちらの――そう、祭壇の横。傍らで、待機を。
新婦入場の際、拍手が起こりますから、それを合図に聖歌を一曲、捧げてください。祈りの姿勢で……あ、立ったままで結構です。歌いやすいようにどうぞ」
「?ずいぶんと、簡単なんですね?」
もっと細かくお作法について諭されると覚悟していたエウルナリアは、少し拍子抜けした。
老司祭は、すかさず眉に埋もれた片目を瞑ってみせる。
「……いいんですよ。我々は、姿の見えない神に祈るんじゃない。目の前のひとの、心の平安と幸せを祈るんです。その手伝いをしているに過ぎない。それが、サングリードの御教えですから」
しかも「本当は、折角の可愛らしいお顔を出して歌っていただきたかったのですが」と、にこにこと付け足す、人好きのする笑みを浮かべた老爺――もとい、老司祭。
エウルナリアはつい、軽く吹き出してしまった。さすが、ユシッドの師――なのだろうか。
あとで話してみたいと思った。ついそのまま、上目使いで老司祭のおだやかな顔を窺う。
「あの…司祭様って、案外お茶目な方でしたのね?」
「フフッ。お褒めにあずかり光栄ですな。さ、参りましょう」
白い祭礼服をまとった少女は、老司祭から差し出された皺のある右手に自らの右手を重ね、すっと立ち上がった。




