85 特別な時間
季節は巡る。
長く、白雪山脈から吹きつけた凍える息吹は、南の海から流れ込む、命の萌芽を誘う優しい風へ。
縮こまっていた地中の種は、一斉に外へ――陽の光を求め、空を目指して動き始める。
芽吹く花、あたらしい葉を繁らせる木々、装いを改める人びと。青さをほんの少し、鮮やかにした晴天に、賑やかな鳥の声。
春は、来た。
――コンコン、と来客を告げるノックが響く。
「はい」
応えるのは、部屋付きの女性。聖教会の聖職者でもある彼女は「少しお待ちくださいね」と微笑むと、身にまとった祭礼用の長衣の裾を優雅にさばき、扉へと向かった。
やがて小さな――女性へと変貌しつつある――…春の妖精のごとき黒髪の令嬢が、開かれた扉の向こうから、そっと半身を覗かせる。
ぴたり、と視線が結ばれた瞬間。
令嬢は愛らしい顔をみるみる内に、咲き初める花のように綻ばせた。破顔というには、あまりにうつくしい笑みだ。
「先生……!なんて素敵!!この度はおめでとうございます。お招きいただいて、とても嬉しいですわ。
――この佳き日に言寿ぎを。謹んでお祝い申しあげます」
女性の聖職者に促され、入室したエウルナリアは頬を紅潮させながらふわり、と羽が舞うように見事な淑女の祝いの礼をとった。
その完璧な立ち居振舞いに、元教え子の成長を察した女性――花嫁姿のアリス・ユーリズ女史は、ふいに込み上げそうになる目許を軽く押さえながら、微笑む。
「丁寧なご祝辞を有り難うございます、エウルナリア様。……ようこそ、おいで下さいました」
本番前に思わず化粧を落としてしまうところだったと気づいた花嫁は、更に深く、にっこりと笑みを浮かべた。
* * *
ユーリズ女史は、綺麗だった。
案内された花嫁の控え室は、以前訪れた礼拝堂の通用口からすぐ近く、右手の扉の向こうに続く、長い廊下の先にあった。エウルナリアは、とにかく緊張して、どきどきしていた。
――何と言って良いのだろう。胸がいっぱいで、挨拶のあとの言葉を続けられない。
親愛と尊敬と、憧れと祝福と。すべてを含んだ光が青い瞳に溢れて、きらきらと輝く。
元教え子からの視線が余りに熱烈で、くすぐったかったのかもしれない。ユーリズ女史はころころと笑った。
「…ふふ。素敵なのは、エウルナリア様のほうですわ。私、貴女が見えられたとき、この部屋に春の御使いが来られたかと、一瞬呆けましてよ」
令嬢は、ぽかん、とした。
頬に「信じられない」と書いてあるかのような、分かりやすい驚愕の表情だ。
「そんな!何を仰るんです、ユーリズ先生。ちゃんと鏡を見てください!ほら。すごくお綺麗なんですよ?
…あぁもう。相変わらず、ご自身のこととなると直ぐ、これなんだから!」
かけ違えた釦が元通りになったかのごとく、すらすらと会話が始まる。
昨年の春、延長に延長を重ねた各種講義は全て修了した。
にも拘わらず、師弟の交流は続いている。
たまに茶会をひらく程度だが、年の離れた同性の友人と言って差し支えないほど、仲は良い。
そうなってから気づいたのだが、ユーリズ女史は意外に面白い女性だった。
今もそう。己の姿に無頓着なのだ。
普段はきっちり隙のない灰髪も、今日は両サイドを緩やかな編み込みから三つ編みにしたものを、真珠の耳飾りの下で弧を描くように持ち上げ、高い位置でまとめている。耳元と、まとめた髪の付け根には、左右非対称に一輪ずつ、大小の青い花。
その上から、白く透けるヴェールを被っている。顔の前は、今は上げてあるから表情もよく見える。
青灰色の瞳は喜びに満ちて、穏やかに笑む様などは、さながら聖母。化粧もいつもと違う。初々しく、幸せな花嫁そのものだ。
エウルナリアは、ふぅ…と小さく吐息を洩らすと、軽く肩をすくめる。
「本当に、仕方のない先生ですね……きっと、幼馴染みの方も新郎控え室で、今か今かと先生のこと、お待ちでしょうに」
小首を傾げ、悪戯っぽく告げると、たちまち花嫁は色づいた。
思わず「わぁ。……ごちそうさまです」と、それ以上は揶揄えないほど。
こほん、と一つの咳払いで誤魔化した、未だ顔が赤い花嫁は―――とっておきの反撃の手札を出そうと決めた。
かつて歴史の難題を出したときと同様に、にっこりと笑みを浮かべたまま、今は薄く紅をひいた唇を開く。
「エウルナリア様こそ、ご覚悟召されませ。皆、それはそれは楽しみにしていますのよ?私も含めて……貴女の歌声を」
きょとん、と青い目を見開いた少女はそのあとすぐ、何の気負いも緊張もない、心から嬉しそうな笑顔となった。
のびのびとした、屈託のない表情である。
花嫁は、つい、本来の役どころを忘れて見とれた。
「――皆さんが楽しみにしていらっしゃるのは、先生の花嫁姿のほうだと、賭けても良いのですけど……
望むところです。私も、ずっと先生に聴いていただきたかったですし。礼拝堂で歌えるのを、とても楽しみにしていましたから」
レガートの歌長が隠しに隠した姫君の歌が、いま恩師の華燭の典にて、ささやかに添えられようとしている。




