76 虎視眈々と、春を待つ
本日の焼き菓子は、マドレーヌ。貝の形を模した、しっとりとした食感はエウルナリアの好むところだ。
茶葉は、干した林檎の入ったアップルティー。
そこはかとなく、林檎の爽やかな甘い匂いが紅茶の香りと合わさって、暖炉で温められた室内を満たした。
窓の外は、しんしんと、ぼたん雪。
――昼過ぎより、降っているかもしれない。
黒髪の令嬢と令息の装いの少女は、部屋の中央の丸いテーブル席へ。グランは変わらずソファーに座っている。レインは従者として、扉の近くで静かに控えている。
「座らないの?」と訊くと、「招かれたキーラ家ならともかく、招いた側のバード家で、それはありません」と、断固として拒否された。
(まぁ、その頑固さもレインらしいといえば、そうかな…)
エウルナリアは、涼しい顔で不動の姿勢を貫くレインに、微苦笑を溢した。
――改めて、目の前の親友に向き合う。
「ロゼルも無試験入学よね?」
「あぁ。一応添え文と作品を一点、年内に提出する」
「一緒ね。私は歌の代わりに《国内外における音楽の展望》っていうテーマで、小論文書かされてるけど」
「へぇ」と呟いた男装の令嬢は、肩の前に降りていた焦げ茶の後れ毛を、うるさそうに後ろへ払った。――邪魔だからと肩下まで切ったら、余計に面倒なことになったと、先程ぼやいていたのを聞いたばかりだ。
つややかな巻き毛を惜しげもなく切ってしまうあたり、如何にもロゼルらしい。
そして、そろそろ女性らしい体型に変化する頃合いのはずなのに、なぜか凛々しい令息ぶりに拍車がかかっている。…本当に、なぜだろう。
「……関係者を呼びつけて、一曲聴かせた方がいいんじゃないか?」
ロゼルの物言いに、内心の疑問はさておき、エウルナリアはおっとりと微笑んだ。
温かい茶器を口許に寄せて、香りだけを楽しむ。目許を和らげると、のんびりと告げた。
「ん……実は、学院の偉い人はそんな意見だったらしいんだけど、お父様の意向でね、こうなっちゃった」
「アルムおじさまの……?それはまた、腹黒いことで。大変だな、エルゥ」
黒髪の――ほんの少し、さなぎから柔らかな蝶の羽が覗きはじめたような色彩を漂わせるようになった少女は、困ったように眉尻を下げて微笑む。
ロゼルは頬杖をつきながら、目の前の親友と、窓辺の赤髪の少年、それに扉手前の従者の少年にも目を遣った。ご丁寧に瞬きを交えて、順番に一拍ずつ――最後に、再び正面に視線を戻す。
深緑の目には、ちょっと気の毒なひとを眺める時と同じくらいの、わかりやすい哀れみが湛えられていた。
「……ほんと、大変だな」
「?いま、何か違う風に聞こえたよ?」
「気にするな」
「えぇ…」
ロゼルは瞳の光を和らげて、くすくすくす、と笑った。口許の片方しか上がってないから、とても意地悪そうだ。
しんしんと、雪が降り積もる。
―――…レインとグランは、少女たちの語らいの、季節はずれの蚊帳の外。
* * *
「じゃあ、またね。今日は二人とも、来てくれてありがとう」
庭の径を、積もったばかりの新雪をきゅ、きゅ、と踏みしめて辿り着いたバード邸の門扉にて。
エウルナリアとレインは、二人の幼馴染みを見送った。グランはロゼルを送ったあと、帰宅するらしい。……間違ってはいない。ロゼルは伯爵令嬢だ。
――見た目は、きりっとした少年の二人連れなのだが。
門扉を出た彼らを見届けた主従は、顔を見合わせてにこりと微笑むと、連れだって、来た道を戻っていった。
時刻は夕方の四時。
冬の日暮れは、近い。
門扉を出たグランに、隣を歩くロゼルは突然話を振った。
「――お前、レインに勝てそうなの?」
何が、とは言わずとも通じる話題に、赤髪の少年はぐうの音も出ない。
黙り込んだ連れに、ロゼルは鼻で笑ってからよしよし、と赤い頭を撫でてやった。
「まぁ、がんばれ。レインにだって、不利な点はある。…私はエルゥが幸せなら、それでいい」
こんなにも爽やかに、不敵な笑みを浮かべられる男装の令嬢は、おそらく他の幼馴染みの少年二人よりも、ずっと男前だ。
グランはあらゆる意味で、妙に打ちのめされた。
「あんた、本当に生まれる性別間違えたよな……」
うっかり零れた少年の本心にも、ロゼルは全く動じない。撫でていた手を降ろして、ふ、と口の端だけで笑う。
「いいや?何も間違えてはいない。私はこれでいいと思ってる――じゃあな。送ってくれて、ありがとう」
いつの間にか、キーラ邸の門扉に辿り着いていた。
手を振って彼女が門扉の内側に入ったのを確認したあと、グランは踵を返す。
彼の家はもっと観光街寄り、貴族街の端のほうだ。
はーーー…と、吐いた息が白い。
「どいつもこいつも……規格外かよ」
じっと右手を見ていた少年は、ふと気づいたように黒い防寒着のフードを引っ張って、深く被った。
(負けるもんか。音楽も、エルゥも――見とけよ、こんちくしょう)
前を見据える、濃紺の目につよい光が宿る。
冬の夕暮れの寒さに気をとめることもなく、赤髪の少年は、ざくざくと家路についた。




