73 暴走と、いろいろな爆発
キリエが去ったあとの三名のうち、最初に膠着状態を崩したのは、意外にもエウルナリアだった。
「レイン、どれくらい、レッスン進んだ?」
ふい、と隣のグランから離れて、ピアノの椅子に座ったままの栗色の髪の従者に歩み寄る。
グランは慌てた様子で、黒髪の少女の左手首を咄嗟に掴んで引き止めた。
「ちょ、待って。えーと…怒ってる?」
「…ううん?」
怒ってはいない。
ただ、何となく距離を取りたい気分で――それを面と向かって言うのは憚られた。
代わりにゆっくりと振り返り、僅かに微笑みながら、ふるふると首を横に振る。
「……」
いつも、活闥な言い合いを繰り広げる二人にしては珍しい。
しばらく様子を見ていたレインは、カタンと椅子から立ち上がり、赤髪の友人にやんわりと助け船を出すことにした。
「…グラン。何か、心当たりはあるんですよね?ちょっと時間をいただきたいんですが…
三十分ほどしたら、来てください。実技試験の伴奏、しますよ」
来春の入学試験を全て受けねばならないグランにとって、その提案は正に渡りに船だ。
赤髪の少年は、しばらく俊巡して見せたが――やがて、こくりと頷く。
「…わかった。エルゥ、できれば、あとで――」
「ん、あとでね」
たおやかに微笑みながらも、頑として本心を出そうとしない少女。ただ、思うことの気配は伝わる。
仕方なく、そっとグランは手を離した。
* * *
「…エルゥ様、連弾しませんか?」
「え?」
赤髪の少年が金管楽器室へ向かったあと、てっきり何があったか問われるだろうと身構えていた少女は、青い目を見開いた。
連弾――レインほどの実力者と、同じピアノを弾く。
…できるだろうか…?と考えながら、エウルナリアは両手を合わせて「はー…」と息を吐く。右手が氷のようだった。
左手は、柔らかく温かい。右手はずっと剥き出しだったので冷たい。
右手のほうが本来の自分だと感じてしまう。
――よく、わからないけどモヤモヤする。
難しい顔で両手を見つめたまま、固まってしまった彼女の足元に、ふいに影が落ちた。
見上げると、ごく近い場所にレインが立って、気遣わしげにこちらを見ている。
「失礼、エルゥ様。ちょっと、手を見せていただけますか?」
エウルナリアは、レインのこんな微笑みに昔から弱い。
先ほど手を温めるために吐いた息とは明らかに違う溜め息を、一つ溢して「…いいよ」と諦めた彼女は、両手を差し出した。
(あんまり、察してほしくないんだけど…)
長い栗色の睫毛を伏せた少年は、受け取った両手を難なく包み――エウルナリアの願いも虚しく、すぐに察して眉を動かす。
「あぁ。なるほど」
にこっと、微笑む。ただし目が笑っていない。
黒髪の少女は、おそるおそる少年の顔を覗き込んだ。
「レイン……?」
「あぁ、大丈夫。貴女に怒ってる訳じゃありません」
エウルナリアは、微笑みながら堂々と怒っていると告げる、従者の胆力に今更ながら感嘆する。
「……グランに、怒ってるの?」
「それもありますが」
徐に、レインは手にした主の両手を引き寄せ、自分の両頬にぴたり、と当てさせた。
「――…隙を作った、自分に怒っています。しかも、片方だけしか温めないなんて、ありえない」
「……な………」
一小節分ほどの空白のあと。
ふるふると震えながら顔を真っ赤にさせた少女の、結構な大音声がピアノ室に響いた。
「レインーーーーーーー!!…ッだからって、こんな温めかたは、ないと思うの!離してっ!今すぐ!」
(油断した……!この、暴走従者!)
はぁ、はぁと息を切らす涙目のエウルナリアに、尚も手を離そうとしないレインはにっこりと笑いかけた。
「グランの気持ちもわかります。好きな子はいじめたくなりますからね。でも僕は、貴女をいじめていいのは、アルム様とロゼル様だけだと思うんです」
そう言いつつ、やんわりと少女の右手の位置をずらし、ほんの少しだけ――自らの唇にも押し当てる。
「…あ。もう大丈夫ですね、右手も温まりましたよ」
とんでもない方法で左右の手の温度が均一になったのを確認した従者は、何事もなかったように主の両手を離した。
「……」
が、――反応がない。
レインは少し心配になり、「…やりすぎました?」と訊きながら、こわごわと主の顔を覗き込む。
(あ、しまった……怒らせた)
従者の少年は、瞬時に心の準備をした。
少女は、すぅ、と息を吸い込んで―――…
「…もうぅ、やだ!グランもレインも、勝手すぎるうぅぅーーーーっ!」
防音のピアノ室に、再度エウルナリアの大絶叫が響き渡った。




