71 繋いだ手
「おはようございます、お嬢様。書類は整いまして?」
朝食後、豊かなを体躯を揺らして部屋を訪れたのは乳母のキリエ。
無試験入学に必要な添え文と選択制の小論文を書いていた少女は、顔を上げずに文字を綴る手も止めないまま、器用に答えた。
「ん…まだよ。申請受付は年末まで、でしょ?」
「まぁ、そうなんですけど」と言いつつ、キリエは足音もたてず歩を進め、飴色の机に向かう少女を見つめる。
(今の答え方も、そうだけど。年々アルム様に似ておいでね…)
大切な主家の姫君の成長を喜ぶ反面、似たのが食えない父君であるところに、乳母はほんのちょっとだけ思い悩む。
――ふと、部屋を見回した彼女はエウルナリアに問いかけた。
「レインはどちらに?」
「手紙を出しに行って貰いがてら、グランのところへお使いに。午後から、皆で離れで遊びたいから」
「左様でございますか…」
一応、主の役に立っているらしいとキリエは安堵の息を吐く。何かと予想外のことをしでかす息子は、彼女の頭痛の種だ。
それでも最近は、以前より節度を守って仕えるようになった。
(なまじ、身体が大きくなったから自制せざるを得なくなっただけでしょうけど)
当人に聞かせれば、おそらく顔を赤くする。
確信を得て、ひとり納得の表情を浮かべたレインとエウルナリアの監督人――キリエは、何食わぬ顔で告げた。
「わかりましたわ。では、午後からすぐ使えるよう離れの暖房など、手配して参ります」
そこで、ようやく書きかけの小論文から目を上げた少女は振り返り、花のように微笑んだ。
「ありがとう。よろしくね、キリエ」
――まことに、罪のないうつくしさである。
* * *
バード邸の冬の庭は、有り体に言って「少し人の手が入った森」だ。
門扉から本邸玄関までの曲がりくねった径と、馬車が納められている守衛舎に厩舎――そこしか、雪かきをしていない。
よほど、花のうつくしい木や繊細な若木などは縄で雪囲いを施して、重みに折れぬようにしてあるが、基本は何も手をかけない。
――折れれば折れたときと、言わんばかりに。
午後。
太陽の位置は曇天に遮られてわかりづらいが、低い中天を過ぎたばかりの昼下がり。
白い雪道を、赤い髪の少年が歩いてきた。
服は黒。内側に保温性の高い羊毛を使った防寒着だ。雪がちらつく中、せっかくのフードを降ろしているため、きりりとした眉を隠す程度に伸びた髪が、少し濡れている。
――それでも気にせず、ざくざくと足跡を残していく。
「グラン!」
少年を呼ぶ、澄んだ愛らしい声が聞こえた。足元を見つめていた少年――グランは顔をあげて、にっと笑う。
「よ、エルゥ。お招きどうも」
音声を消せば、とても洗練された無駄のない仕草で紳士の礼をとったグランは、大好きな少女の後ろにも視線を向けて…「?」と、不思議そうな表情で首をひねった。
「レインは?」
「離れに居るよ。キリエと、先にピアノのレッスンしてる。私だけ降りてきたの。
雪道、楽しいから。このまま直接、離れまで行こう?」
「……キリエさん、いい仕事してんなぁ…まじ、助かる。
いーよ、どっち?見た感じ、離れ方面の道が見当たらないんだけど」
グランは、径の左右に積もった雪の高さを目で測った。ほぼ、自分の膝まではある。
黒髪の少女は青い目を輝かせ、ふふっと悪戯っぽい笑みを浮かべると踵を返した。
「こっち」
少女が向かった先は門扉を背にした左手。木々に埋もれた、道のない雪の中。
「おいおい、大丈夫なのー?」
少し慌てて追いかけると、雪を被った植え込みを、一生懸命にかき分けるエウルナリアの姿が見えた。
些か厚着でこんもりと着ぶくれした彼女の肩越しにあったのは、こんこんと水湧く泉を模した噴水。その周囲から向こう――離れにかけては、ちゃんと雪がどけてある。
「ね?あったでしょ。道!」
曇天の下、空色に白い毛皮を縁どった防寒ケープを纏った少女が得意げに笑った。
「さ、どうぞ?」と左手を出してくれたので、グランは勿論、ずっとポケットで暖めていた右手を躊躇なく伸ばし、まるごと包むようにそれを握る。
――小さくて、つめたい。繊細な指と手のひらだった。
(手袋ぐらい、つけときゃいいのに…あ。でもそれだと、直接触れなかったのか)
さく、さくと雪の隠れ道を歩きながら、黒髪の少女は振り返り、つないだ手の向こう、ずいぶんと男の子らしくなった赤髪の友人を見上げて――珍しく、はにかんだような表情を見せた。
「グランの手、おっきくて温かいね……なんか、緊張する」
(こいつ、絶対俺の告白忘れてるだろ!)
内心で叫んだグランは「そりゃ、どうも」とだけ答えてエウルナリアの左手を引っ張り、彼女のつめたい手もろとも、自分の黒い防寒着のポケットに突っ込んだ。




