69 近くて、得がたいもの
時刻は夕方、六時半。
普通の勤めびとには「ただいま」だが、バード家の当主は「行ってきます」を告げねばならない。
今夜も不夜のつとめに赴こうと通路を歩くアルムに、エントランスに佇む小さな影――愛娘、エウルナリアの後ろ姿が見えた。
西陽が、玄関扉の木蓮を浮かび上がらせている。
少女に降り注ぐ、ほのかな白と紅、緑に青を帯びた硝子越しの光。
――うつくしいな、とアルムは思った。
コツン、コツンとゆったりとした足音に気づいた少女は振りかえり、柔らかな黒髪と萌木色のワンピースを翻して、父のもとへと駆けて来る。
「お父様!」
――近ごろ妙に淑女を目指し、背伸びをしていた彼女にしては珍しい。
それでもアルムは破顔した。歩みを止め、両手を広げて「どうしたの、私の姫君?」と小首を傾げる。
どん!と、なかなかの勢いで、エウルナリアはアルムの腹部と腕の間に収まった。
ぎゅ、と抱きしめてから力を緩めると、ぱっと愛らしい顔が見上げてくる。
「お父様、私、ユーリズ先生から歴史とマナーの合格をいただきました」
よほど嬉しいのだろう。満面の笑みに、大きな青い瞳は喜色に溢れている。
「もう?すごく早かったね」と微笑み返しながらも、アルムは考えを巡らせた。
――…ということは、あとは各国の法制度と差し迫った国際情勢のみか、と。
父の思考が伝わったわけではなかろうが――エウルナリアは表情を改めて、ふと一言、告げた。
「私も出来るかぎり、やってみます」
凪いだ湖のように、ありのままを受けとめる覚悟が透けて見えそうなほどの、静かな色彩の瞳だった。
アルムは、彼女の目線に合わせて、そっと方膝をつく。
「――ありがとう。今は、その気持ちと言葉だけで充分だよ。
それに…君なら、何の気負いもいらない。君は、君のままがいい」
大きな掌が、やさしく髪をなでる感触が心地よかったのか、少女は纏った空気を一変させ、くすぐったそうに笑った。
いとおしいな、という気持ちのまま、アルムは娘のふわふわの頬に軽く音をたてて口づける。
濃い緑の目は、とても和らいでいた。
「さてと、エルゥ成分も補充できたし。今日も、頑張って行ってくるよ」
なぜか再び腕のなかに閉じ込められてしまった少女は、くすくすと楽しそうに笑いながら「いってらっしゃい、お父様」と、温かな抱擁に応えた。
* * *
「なんだか……僕の、今の最大の敵はアルム様のように思えます」
「?…だめよ?お父様を敵に回したら。さすがのレインも、従者の任を解かれちゃうよ」
あのあと、上機嫌のアルムを見送った主従は二階のエウルナリアの部屋へと向かっている。
(その敵みずから、正式な婚約者候補にと一応、望まれたんですけど。口止めを強いるあたり、あの方らしいというか……嫌がらせですよね)
文字通り、何も言えない少年の心を知ってか知らずか、隣を歩く少女は微笑んだ。
「変なレインね」
くすくすと、こちらもご機嫌な様子だ。
辿り着いた部屋の扉を開いて、「どうぞ」と主を入室させたレインは、ごく自然に従者らしからぬ軽口を叩こうとした。
「じゃあ、変な――」
「却下」
「まだ、なにも言ってないじゃないですか」
「いーえ、何となく分かりました。結構よ」
「…何が結構なのか、僕にはさっぱり……教えていただけますか?エルゥ様」
ぱたん、と扉を閉めた途端、愛称呼びになるレインが通常運転すぎる。
「~~…ッ教えない!」
ふいっと顔を逸らしてしまった少女の黒髪から、赤くなった耳がちらりと見えた。
レインは、それだけで楽しくなってしまう。
にこにこと、嬉しそうな従者の少年。
エウルナリアが横目でじとりと睨んだ視線は、軽く流されてしまった。
窓の外は夕暮れ。
いずれ訪れる数年後。
エウルナリアは、この頃がいちばん穏やかだったと、色々な思いを込めて振り返ることになるが……――
――それはまだ、少し先の話。




