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楽士伯の姫君は、歌わずにいられない  作者: 汐の音
十歳篇 春、始まる
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6 知らぬは本人ばかりなり

 朝から一悶着(ひともんちゃく)はあったが、とても良いピアノを聴けたエウルナリアは、ご機嫌で庭を歩く。


 通りに面した正門に繋がる、広い中庭だ。中央に小さな泉を模した噴水があり、木陰には休憩できる四阿(あずまや)もある。

 規則性はないが、きちんと手入れされた芝生や植え込み、木立のそこかしこで、色とりどりの花が風に揺れていた。

 この不規則さが、自然っぽさのようで癒されるのかも知れない――エウルナリアは、幼い頃から親しんだ、飾り気のないこの庭が好きだ。


 あれから、キリエは当主のもとへ。レインは家令のダーニクのもとへ。つまり二人とも父の書斎へ向かった。

 フィーネは、小さな主に付き従いたそうにしていたが、メイドとしての仕事もあるので先に本邸へと戻ってもらった。

 エウルナリア自身は、昼食までが自由時間。午後からお茶の時間までは、休息日や行事のある日以外、ユーリズ女史の講義を受けることになっている。

 部屋で予習をしてもよかったが、今は、春の柔らかな日差しの下、緑の庭をのんびりと歩きたい気分だった。


 (レイン、すごかったなぁ…)


 考えるのは、さっきまで身体中を駆け巡った、あのピアノ。

 つい、聴いたばかりの旋律が口から出てしまう。歌詞は知らない。そもそもないのだろう。適当なハミングだ。


 春の庭で、歌いながら木陰(こかげ)を歩く少女――薄く氷色(こおりいろ)を溶かしたような、ごく淡い桃色のワンピースを(まと)ったエウルナリアは、見る人が見れば絵画のようだった。

 少し癖のある黒髪が、柔らかく背を波打つ。微風で乱れた前髪も愛らしい。澄んだ湖のような青い目を縁取る長い睫毛(まつげ)は、白い(おもて)に優雅な影を落としている。

 成長途中の華奢(きゃしゃ)で小柄な体躯も相まって、少女にはどことなく妖精や精霊のような雰囲気があった。


 尚、本人は何気なく口ずさんでいるつもりだが、そのハミングは風に乗り、思ったより遠くまで響いている。

 透き通って柔らかい声質と、やたら正確な音程。的確な強弱が絶妙にかかっており、抑えていても芯のある声量。ご丁寧にリズムまで正しいそれは、聴くものが聴けば、つい手を止めて声の方向を仰ぎ見てしまうほどだ。


 バード家の門を守る厳つい守衛たちや、庭に近い場所で働く使用人たちも、この時ばかりは身に降った幸運として、心地良さそうに耳を傾けていた。




   *   *   *




「…楽しそうに、歌ってらっしゃいますね」


「あぁ。今日は特に」


 風を入れるために開けられた窓から、愛らしいハミングが聴こえる。

 家令のダーニクは息子への指示を一旦止め、執務机での書類仕事の手を止めていたアルムに話しかけた。アルムは目を瞑り、機嫌よく答える。声音が楽しげだ。


「…聴いたことのない曲だね」


 離れは全体に防音の処置が施されているため、今朝のレインの演奏を、当主は知らない。

 同室で控えていたキリエが、淑やかに答えた。


「先ほど、息子が即興で弾いていましたの」


「へぇ。いいね。レイン、ピアノもいいけど、作曲も考えてみる?」


「!…は、はい。第二専攻としては、考えています。母には苦い顔をされますが」


 初々しい反応を見せる従者見習いの少年に、アルムは悪戯(いたずら)っぽく微笑んで見せた。少年より少し離れた後ろ――扉の近くで、キリエが実に渋い顔をしていたためだ。

 妻と長男のやり取りに、夫であり父でもあるダーニクは慣れているらしい。調子を変えずに指示を続ける。


「…では、今日のところは先の指示通りに。

 明日以降のお嬢様のご起床や、邸内の散策、お出かけの際は必ず付き従うよう。フィーネとも、よく相談しなさい」


「はい、わかりました」


 落ち着いた様子で答えたレインは、上司となった父とその主に折り目正しく一礼してから扉に向かう。母親へは、軽く会釈をしながら退出していった。

 …足音が遠ざかってから、アルムは口を開く。


「いい子だね」


「恐れ入ります」


 ダーニクが、いつも通り淡々と答えた。レインは外見が父親譲りだが、中身は母親のキリエに近い。ダーニクの内面は、むしろ娘のフィーネに受け継がれているようだ。


「…じゃあ、報告を聞こうか?何となくわかるけど」


 アルムは黒い皮張りの執務椅子に体重を預け、ついでに背伸びをした。とても一児の親には見えない。血統の良い猫のような、(くつろ)いだ様子である。

 ほんの少し苦笑しつつ、キリエは手短(てみじか)に話すことにした。


「お察しの通りですわ。エウルナリア様は、レインのピアノが大層(たいそう)お気に召したご様子です。

 息子に至っては、おそれ多くも出過ぎた想いまで抱きかねないかと」


「いいんじゃないかな?予想通りで嬉しいよ。君たちの息子なら、私も安心だ」


「!?…いやいや、釣り合いが取れませんよ!然るべき婚約者候補の若君も、たくさんいらっしゃるでしょう?」


 キリエは慌てて声を荒げた。彼女にとってエウルナリアは、大事な大事な主家のお姫さまだ。相手に平民の息子などあり得ないと、青ざめた顔色が如実に語っている。


「うん?…そんなにはいないよ。それに、選ぶのはエルゥだ。あの子は、音には敏感(びんかん)だが人には(うと)い。惚れた方には長い道のりだろうね。

 ……けど、本当に大事なことはわかってるし、決めたことは絶対に譲らないんだ…」


 前半はいつも通り飄々(ひょうひょう)としたものだったが、後半になると声の調子が落ちていた。

 ――何ということはない。娘をもつ父親の、ただの愚痴(ぐち)である。


 この先苦労するのは、なにも未来の婿殿(むこどの)だけではなさそうだと、アルムは少しだけ遠い目になった。

 目敏(めざと)くそれに気付いたダーニクは、すかさず問いかける。


「アルム様?」


「いや、すまない。何でもない」


 目の前の夫妻は信頼できる。学院生だった頃から、家を継いでからもずっと、助けとなってくれた。かけがえのない友人だ。

 彼らの息子が自分の息子になってくれるのなら、むしろ良い。レインには相当負担をかけることになるだろうが…多分、本人は苦にもしないだろう。


「そういうことだから、引き続き見守ってくれると助かるよ。頼まれてくれるかい?」


 親愛なる友人であり、敬愛する主でもあるアルムの申し出に否やはない。


 ダーニクは相変わらず表情を変えないまま目を伏せ、キリエは困り顔のまま。

 (そろ)って、一礼した。


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