62 水面下の丁丁発止
「レインが、お嬢様を嫌う…?あり得ませんわ」
あのあと、固まったままのエウルナリアを優しく解してくれたのは、レインの代わりに来てくれたフィーネだった。
正直、お茶を淹れるどころではないのだが、生来の気質だろうか。一度決めたことはやり通さないと気持ち悪い。
黒髪の少女は浮かぬ顔ではあるものの、作法に忠実に紅茶を蒸らしている。
――この茶葉は、蒸らし時間は四分。
大好きなセフュラ産の果実茶は、熱湯を注いだ瞬間に立ち上る香りが、とてもいい。
甘い匂い、甘いフィーネ、厨房で焼いてもらったばかりのスコーンと、とっておきの杏のジャム。……無意識の選択が揃い踏みで、エウルナリアに「まぁ、落ち着きなよ」と言わんばかりだった。
「そうかな…すごく、怒ってた。私が不甲斐ないからだと思う」
サラサラサラ…と間断なく落ちる砂時計から察するに、あと少しかかりそう。エウルナリアは話を続けた。
客としてソファーで姿勢よく座るフィーネは、相変わらず、容赦のない弁の冴えを見せている。
「…不甲斐ない……?それは、あの愚弟のことかと。こんなに主を困らせる従者が、どこにいますか」
(ここに、居るのよね…レインなら、しれっと言いそう)
遠い目になったところで、砂がすべて落ちた。決して急がず、優雅な所作を意識して――今は二人分の茶器に、一滴も残さず交互に注ぎ切る。ここで、紅茶の香りと果物の甘い匂いが最もつよくなる。
考え事をしているせいか却って、雑念が入らない。多分、今までで一番流れるように淹れられた。
「はい。どうぞ、フィーネ。熱いから気をつけて」
カチャリ、と受け皿の上に乗せた茶器と合わせて、そっと置く。ジャムを添えたスコーンのお皿は、招待客の左手側へ。
それから、自らの分も置いてゆったりと着席した。
妹のように、宝物のように大事にしているエウルナリアの一連の動作を、師の一人としてずっと眺めていた、淡い金の纏め髪の女性――フィーネは、にっこりと微笑んだ。
「実技、合格ですわ。お嬢様」
……もう、この邸のひと達ときたら、抜きうち・不意うちに長けすぎだ。
それでも嬉しかったので、少女も茶器を両手で支えながら、にこっと笑って見せた。
「ありがとう、フィーネ。…じゃ、頂きましょ?」
――レインの棘は、まだ抜けない。
* * *
コンコン、と重厚な造りの扉が叩かれた。
「――どうぞ。…なんだ、お前か。どうした?レイン」
カチャ、と内側から開いた扉の向こう、姿を現したのは、バード楽士伯家の家令ダーニク。少年の父でもある。
「申し訳ありません。エウルナリア様のことで、少しアルム様とお話したいのですが」
只事ではない息子の気配に、片眉を上げたダーニクは、ふい、と室内奥の当主を返り見た。
書斎の勤務机では、アルムが書類仕事をしている。いつもより、積み上げられた山が高い。セフュラ遠征で溜まった分である。
「アルム様、いかがなさいますか?」
「聞こう」
「…ありがとうございます。失礼致します」
一礼して、入室するレイン。
扉側に控えるダーニク。
書類から目を離さず、黙々と左の山から取った書類に何かを書き付けて、右の分類棚へと分けてゆくアルム。
――明らかに無理に時間を取ってくれている。
レインは一層、気を引き締めた。
「先日、船でお話しくださった件ですが」
「あぁ。決まった?」
飄々としたテノールの声は、いつもと同じ。だが、やはり手は止まらない。
「はい。お受けします」
「そう」
カタン。
そこまで話して、ようやく右手のペンを机に置いた。「ふぅー…」と息を大きく吐いている。集中のあまり、詰めながら仕事していたようだ。
(妙なところで、エルゥ様と似ておいでだな……)
彼女も、よくそんな仕草をする。
思い出したレインは、つい、頬をゆるめて灰色の目に柔らかな光を乗せた。
見咎めたように、濃い緑の眼差しが彼を射る。
「今、エルゥのことを思い出したろう。…そんなに好きかい、彼女のこと?」
「勿論です」
迷いなく即答する少年に、アルムはほろ苦い笑みを浮かべた。
「…わかった。じゃあ、もし彼女が君を選んだときは、安心していいよ。養子縁組先も確保しておくから、気にせず頑張って。
――あぁ、でも、候補者はあと二人いる」
アルムはいつも通り、いかにも今思い出した、という風に決定事項を告げた。
レインは素早く、その情報と現状のすり合わせを行い、質問として切り返す。
「…グランはその内に入りますか?彼は三日前、エウルナリア様に好意を伝えました。騎士ではなく皇国楽士団の独奏者を目指すそうです」
「ふーん?……グラン君は嫌いじゃないが、あくまでイレギュラーだね。一応、候補に数えてもいいけど。正式な婚約者候補とは、学院に行けば会えるよ。
……あれ?君、今の時間はエルゥの紅茶試験の判定係じゃなかったっけ?」
――よく、ご存じで。
レインは、しれっと答えた。
「ちょっとした事案が発生しましたので、姉に代わってもらいました。…いけませんでしたか?」
当主に対して、一歩も退かない従者の少年。
アルムは、彼のこんなところを―――…嫌いではない。
にやり、と口の端をあげたバード家の当主は愉しげに、「いいや?意味深だね」とだけ、告げた。




