61 刺さった棘
――珍しい光景だ。
柔らかな黒髪の少女が、飴色の机に伏してうたた寝をしている。
講習会の二日後、昼下がりのこと。
ちょうど、練習用の紅茶セットを運んで入室したレインは、音がしないようにそれをローテーブルの上に置いた。
そのままソファーに畳んであった夏用の白い上着を取ると、開いた窓に向かって座る彼女の、小さな肩にそっと掛ける。
風が、窓辺の薄い黄緑のカーテンを揺らし、少女の黒髪もふわりと靡かせた。
レインは惹かれるまま、彼女の愛らしい頬にかかる一筋の髪を、慎重に後ろへと流す。
伏せられた睫毛が、すごく長い。半分ひらいた珊瑚色の唇からは、すぅ…すぅ…と、規則正しい寝息が聞こえた。
昨夜も、遅くまで起きていたのかもしれない。
「なんというか……ここまで、脇目もふらずだと心配になるんですが」
苦笑とともに零れた言葉は、少女の耳には届かない。
レインは、何となく目を伏せて、彼女のこめかみに顔を寄せると――つい、そのまま口づけてしまった。……自分でもわかる。暴走した。
感触が分かったのか、ぴくりと睫毛が震え、ゆるゆると瞼が開いてゆく。まだ、夢を見ていような澄んだ青色の瞳が、ぼんやりと少年の姿を映した。
「……レイン…?」
「はい。エルゥ様」
ぱっ!とエウルナリアは覚醒した。
頬に、朱が差している。
「あ!あぁぁあの!…え?気のせい…?」
ものすごく、動転している。
こちらも中々めずらしい光景で、レインは、惚れ惚れするほど幸せそうな笑顔になった。
ついでに、むくりと意地悪な気持ちも頭を上げつつある。
「いえ?隙だらけでしたので、口づけを。……こめかみに、ですけど
「!!~~ッ…こ、こめかみならいいとか、思ってる?だめに決まってるでしょ!
もう、なんなの。貴方といい、グランといい……」
涙目で、耳まで赤い主はそうそう見る機会がない。思った以上の嬉しさに更に暴走しそうなレインだったが、少女の言葉の後半にぴく、と反応した。
「グランに、何かされました?」
「……っ…な、何にも、されてない!窓際で捕まった時だって、誓いを破っていいかって、わざわざ訊いてきたし!あ、でも……うぅ…」
主の、大きく潤んだ青い目が泳いでいる。
レインは、はぁ…とため息をついた。
「やられましたね……告白、されました?」
「――なんで、わかるの?!」
「わかりますよ」
同じ気持ちを抱いてるんですから――とは、絶対に口にしない。
『同じ』なんかに、されたくない。
「口づけたことは、謝りません。後悔はしていませんから」
「っ……?!」
「これに懲りたら、お願いですから、もっと自覚なさってください。誰に対しても。隙があれば、僕はこれからも節度をぶん投げて、貴女に触れます。
…午後のお茶は、姉に交替してもらいますね。――今日はもうこれで、失礼します」
レインらしからぬ、怒ったような声音だった。
* * *
ぱたん、と扉が閉められた音。
少女は立ち直れず、まだ固まっている。
――耳に届いた言葉は幻聴だったのか、錯角するほど言うだけ言って、従者の少年は去ってしまった。
幻ではなかった証拠は、ローテーブルの上にある。しかし…
「……従者らしく、なさすぎるよ。レイン…」
まだ、頬と耳の辺りが熱い。
感触が残るこめかみに手を当てながら、困り果てた少女は力なく呟き……はた、と、いつの間にか肩に掛けられた上着にも気づく。
――謝るべきか、怒るべきか。
そもそも、これは喧嘩と言えるのか…?
(ひょっとして、私があんまり情けないから、もう、嫌われちゃったのかな……)
エウルナリアの胸に、つきん、と痛みが走った。




