59 乳母のお仕置き(前)
「さ、特訓ですよ。お嬢様」
にこにこにこ、と素晴らしい迫力の笑顔で凄むのは乳母のキリエ。
黒髪の少女は「はーい…」と、しおらしく返事をし、力なく佇む。既に一通りの説教を受けた後である。側には、苦笑するフィーネとレインが控えていた。
――時刻は午前十時。
キリエを筆頭とする四名は、離れのサロンに来ている。
昨夜、熟考のあまり盛大に溢してしまったハーブティーの跡は、あっさりとメイド達に見つかった。
中途半端な場所で、行儀悪く立って飲んでいたのが良くなかった……せめて、机やローテーブルの近くなら、ここまで叱られることはなかったのだが。
キリエは、主家の娘に対しても基本的に容赦がない。誰に対してもそうなのだが、大声も手もあげることなく、どういうわけか相手をへし折ってしまう。
(そういえば、今朝はお父様の出迎えのとき、若いメイドのひと達が、やけに静かだったな…)
遠い目で何があったかを察したエウルナリアは、ちらりと隣の従者の少年に視線を向けた。
少しだけ見上げるほどの高さにある、綺麗な横顔。
素直そうな外見を大きく裏切り、彼は実母をして「もう限界」と、言わしめた人物だ。
つい、遠慮なく見つめていると、少年の灰色の目と視線が合った。
「……すごいよね、レインって。尊敬するわ」
「…よく、わかりませんが…ありがとうございます?」
よくわからない称賛でも、疑問形で礼を述べられるレインは律儀なひとだ。何となく癒されたエウルナリアは、ふわりと羽が舞うような軽やかさで微笑んだ。
それを受け、栗色の髪の少年も幸せそうに目を細めている。
穏やかな主従の仲睦まじい様子に、ちょっと複雑な表情になったキリエは、てきぱきと指示を出すべく動きだした。
「…ではフィーネ、お湯を沸かして。レインは茶器の確認を。
お嬢様は掛けてお待ちください。座る姿勢も意識なさって。そう、椅子に深く。浅いと猫背になりやすいですわ」
――キリエ曰く、罰の一環らしい。
《美味しい紅茶の淹れ方とマナー講習会》の始まりである。
* * *
離れのサロンは、広さはおよそグランドピアノが四台分の、小じんまりとした部屋だ。
金糸のタッセルで結わえられた夏仕様の薄青のカーテンと奥庭の緑、濃紺の絨毯の色合いに、まず目がゆく。
窓の下、壁際には三、四名が寛げそうなソファーと小さなサイドテーブルがあった。
部屋の中央には丸いテーブルに椅子が二つ。卓上の硝子の花器には、紫がかった白の小百合が数本、涼しげに生けられている。扉を背にして右手奥は、衝立で仕切られた給湯スペースだ。
椅子に深く座り、淑女のお手本のような姿勢で目の前の紅茶セットを眺めるエウルナリアは、好奇心だけは抑えられず、青い目が楽しげに輝いている。
「実は、自分でもお茶を淹れられるようになってみたかったの。これが罰なら、昨夜は粗相してよかったわ」
あまりにも嬉しそうなので、キリエもつい苦笑した。使用人達が甘くなるのも頷ける――少女は、自分のふとした仕草や表情が、どれ程ひとを惹き付けてしまうのか、全く理解していない。
「…そんなことを仰るようでは、休暇明けのユーリズ先生から合格をもらえませんよ?」
ちくり、と忠言すると、エウルナリアの雰囲気が一瞬でがらりと変わった。
すっと伸びた背筋、膝で揃えられた手の位置は変わらぬまま、身を纏う空気と表情が、清らかに凛と咲く、白い海芋の花のようになる。
令嬢を除く三名は、思わず見惚れた。
「……なんと言いますか…そういうところは、成長なさいましたね。セフュラでの経験、ということでしょうか?」
辛うじて、いつも通りの声で問うキリエ。
それに対し、思案する様子を見せた黒髪の令嬢は――少しだけ首を傾げ、妖精の姫君のように悪戯っぽく微笑んだ。
「そうね、色々あったし…何より、ユーリズ先生には早く認めていただかないと。練習室でしか歌えないなんて、もう、うんざりなの」
(成長の動機は、至ってこの方らしいですね…)
三名のうちの誰かが微苦笑とともに抱いた感想は、何となくそのまま、胸中に秘められた。




