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楽士伯の姫君は、歌わずにいられない  作者: 汐の音
十歳篇 春、始まる
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5 レインのピアノ

 最初の一音――レインの指が優しく、確かな強さで鍵盤(けんばん)を沈めたとき。

 彼は、再び目を半ば閉じていた。


 楽譜はない。エウルナリアは知らない曲だったが、弾き手は完璧に暗譜(あんぷ)しているらしい。危うげな様子は微塵(みじん)も見られない。


 風が揺れるように、ささやかな高音が優しく旋律(せんりつ)を奏でる。とても自然な音の入り方だった。


 そっと左手のアルペジオ――和音の階段が高めの位置で右手の主旋律を追いかける。

 あえて、揺れるリズム。ゆらめいて、波のように高音が時折きらめく。

 そうして数度、調子を変えては繰り返されていた静かな主題だったが……ふと、()()ない仕草で、奏者の動きと音が止まった。



 ――――――ィィン



 わずかな余韻(よいん)と確実な変化への予感を残し、引き伸ばされた休符(きゅうふ)が、狭くはない部屋を支配してゆく。



 一瞬後。


 「!!」


 突如、打ち付ける(かね)のような音に、エウルナリアは全身を捕らえられた。



 第一主題とは、打って変わった攻撃的な音の波。

 複雑な響きの低音の伴奏の上で、右手が正確に一音一音を刻む。

 容赦のない間奏が、速度を上げている錯覚(さっかく)を起こすほどの疾走感(しっそうかん)で攻め立てて来る。力強く、要所で加えられるアクセントが格好いい。


 まだ十歳のはずなのに、全身と指の力を十全に使って、彼は渾身(こんしん)の第二主題を奏でていた。

 本当に二本の腕、十本の指で鳴らされているんだろうか?とびきりの速度を保ちながら、こんなにも惹きつけられる音の奔流(ほんりゅう)を、どうして生み出せる?


 悔しい。けど、すごい。

 胸が苦しい。けど、ずっと聴いていたい。

 圧倒される。わくわくして止まらない…!


 相反する心と情感。体の内側が荒れ狂う波で翻弄(ほんろう)される。知らず、エウルナリアの頬は胸の内を映して熱くなっていた。


 キリエと全然ちがう。

 この人は、ピアノで心のままに歌ってる。



 けれど……惜しい。終わってしまう。


 なんとなく、曲の終わりがわかってしまうことに寂しさを覚えながら、エウルナリアは最後の音がもたらす余韻を余すことなく味わいたくて、そっと(まぶた)を閉じた。




   *   *   *




 圧倒的な熱量が消え去ったあとの静寂(せいじゃく)の中、最初に動きを見せたのはキリエだった。


 さすが乳母にして前メイド長。大仕事を終えた後の息子に足音もなく近寄ると――なんと、ぺしん!と音がするほどの勢いで、その形の良い頭を叩いていた。


「いったぁ…!な…何で!?」


 すかさず年相応の反応を見せるレイン。打たれた後頭部を片手で押さえながら、容赦(ようしゃ)のない母親を仰ぎ見ている。かわいそうに涙目だ。


「この…愚か者!どうしてあの曲があんな風になるのです?この暴走息子!!」


「え……何となく。あぁした方が良さそうだったから?」


 悪びれず、しれっと答えるレイン。思いの外、見た目よりも(たくま)しく出来ているようだ。

 キリエは何か心の内を抑えているらしく、しばらくふるふると震えていた。

 フィーネは、相変わらず涼しい顔だ。


 やがて、諦めたように嘆息(たんそく)したキリエは、未だ軽い混乱の最中(さなか)にあるエウルナリアに説明を始めた。


「本当に申し訳ありません…(しつけ)が足りなかったようで、この愚息(ぐそく)めは、演奏中に勝手に楽譜を作ってしまうのです…!」


 憤懣(ふんまん)やる方ない、とはこんな状態を言うのだろうか。なるほど、途中からは全くの即興(そっきょう)だったようだ。

 それはそれで、ある意味すごい。

 そして、キリエが無意識に作る右手の拳の圧もすごい。


「ですが、さすがにこれ以上貴女のお側を離れている訳にゆきませんし、この馬鹿の教育も、これが精一杯の有り様でして…」


 (どうしよう。こんなに途方に暮れるキリエ、初めて見た…)


 少しおろおろとしながらも、エウルナリアは本心を伝えることにした。


「あの…キリエ?私はすごいと思ったわよ?レインのピアノ。元からあんな曲なんだと思ったわ。すごく、多彩で綺麗な音だった」


 ぴん!と跳ねあがるように栗色の頭が上向く。

 レインが、信じられないものを見るようにエウルナリアをまじまじと見つめた。


「あの…本当に?」


「えぇ。すごく惹き込まれたわ。私は、あなたのピアノが好きです。

 ――また、聴かせてくれる?」


 途端に、同い年の乳兄弟は綺麗な顔をそれは嬉しそうに綻ばせた。気のせいでなければ、耳まで赤い。


「はい…!喜んで。今度は伴奏しますから、エウルナリア様の歌もぜひ聴かせてください!」


 喜んでもらえて良かった、とほっこりするエウルナリア。「もちろんよ」と返事をしようとすると、いつの間にかフィーネが前に立ち塞がっていた。


「はい、そこまで。…新参の分際で、あんまり調子に乗らないの。この後、あなたは従者見習いとして一日、父の言いつけに従うように。お嬢様の側に上がるのは明日からです。

 お母様は、アルム様がこの件について報告に来てほしいとのことです」


「う…わかりました、姉上」


「はいはい。わかったわ、フィーネ」


 それぞれが答える声を、遮られたフィーネの背中越しに聞く。


 (どうして、うちのメイドは足音をさせないんだろう…そして、過保護なんだろう。特にフィーネ)


 若干、置いていかれたような気はするが、確かにそれぞれ仕事を抱える身だ。いつまでも拘束すべきではないかと、エウルナリアは切り替えた。


「…レイン、今日は素敵なピアノをありがとう。キリエも、あまり怒らないであげてね。

 あの…一緒に、本邸まで戻りましょ?」


 小首を傾げて、場を和らげるよう心がけて微笑みながら提案する。

 これには三人とも、文句のない笑顔で応えていた。


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