55 真逆の温度、読めぬもの
結局、セフュラに行って以来、自分達も練習が出来ていなかったことに気づいた主従は一時間、グランに倣ってそれぞれの歌やピアノに充てようか、という話になった。
「僕は、少し早めに切り上げますね。一階でお茶の準備をしていますから。エルゥ様もあまり、根をつめませんよう…程々になさってください」
困ったように微笑んで、レインはピアノ室へ。黒髪の少女は「うん」と言葉少なく通路で従者の少年と別れた。赤髪の少年はとっくに移動している。
一人でそう広くもない練習室に入り、ぱたん、と後ろ手に扉を閉めた少女はそのまま、ふぅ、と詰めていた息を吐く。
俯いた顔をゆるゆると上げて、見るともなく室内を視界に収めた。
部屋には、木製の楽譜立てとシンプルな椅子が一つずつ。あとは、小さな窓が一つだけ。
離れの個人練習室は全部で四つ。聴こえないけれど、隣の似たような部屋には彼がいる。
――あんな、顔をしたままで。
「勿体ないな、グラン」
呟きすら、全て吸い込んで消してしまう、四方の壁。
エウルナリアは目を瞑る。
心に甦るのは、さっきまで聴いていた、きらきらと輝く白金色のトランペット。
真っ直ぐで、滑らかに伸びて、柔らかく響く切ない音色――それがずっと、胸に刺さっている。
レインにしてもそうだが、並大抵の努力ではあんな音にならない。好きで、好きで、真摯に楽器と向き合ったからこそ得られた音のはずだ。
(大好きなのに切り捨てるなんて、やっぱり間違ってるよ。グラン)
自分のことみたいに、胸がじくじくする。
――――聴きたい。
もう一度、何度でも聴きたい。
まだ、もっと、つよくなる音だった。
こんな場所で、誰にも聴かせず終わらせるような、音じゃない……!
瞳に力を込めたエウルナリアは、後ろ手の扉を再び、開けた。
* * *
「よ。どうしたの」
緊張しながら一応ノックして、隣の扉をそぅっと開けると――赤髪の少年は組んだ膝の上にトランペットを乗せたまま、のんびりと椅子に座っていた。普通だ。
思わず、その場で扉を開いたまま、黒髪の少女はへなへなと踞る。
「……かえして。私の緊張」
「え、何。何の話??」
慌てふためく、グラン。紺色の目は…いつもの彼に、見える。
一旦目を瞑り、ため息を肩で大きく吐いたエウルナリアは気持ちを切り替えた。
――そう、物事って確か、片方からじゃ何もわからないんだった。
少女は船の中で交わした、父と乳母との会話を思い出した。
「何でもない。グランと話がしたかったの」
スッと立ち上がり、目の前を通りすぎる少女の揺れる黒髪を目で追いながら、グランは目を瞬く。
「俺と…?レイン抜きで?そいつは嬉しいな」
破顔するグランに、困ったように小首を傾げなから、少女は振り返った。そのまま、窓を背に寄りかかる。
「レインは従者だから、大抵一緒に居てくれるけど。いつもってわけじゃないよ?彼にも、他にお仕事はあるもの」
黒髪の少女の至極まっとうな言葉に、グランは何とも言えない表情になった。「従者…いや、正にその通りなんだけど」と、口の中だけで呟いている。
「…エルゥ。あいつの気持ち、知っててそう言ってんの?」
(なぜ、そうなる)
違う、そんなことを話しに来たんじゃない――そう告げようとしたはずなのに、エウルナリアの頬は勝手に、すばやく薄桃色に染まり上がってゆく。その色は、ワンピースより濃いかもしれない。
赤髪の少年は、夜のような紺色の目を、すぅっと細めた。
「うわぁ……わかりやす。そっか、あいつハッキリしてるもんな。見た目と違って」
――そこは同意する。
恥ずかしくなった少女は、熱くなった頬を冷ますため、両手で押さえて目を伏せ、俯く。
黒く長い睫毛が、赤らんだ目元を隠すように影を落としたが……足元も翳った気がして目線を上げると、ずいぶんと近い場所にグランのきつめの整った顔があった。
――表情は、読めない。
「グラン…?」
「はい。持ってて」
渡されたのは白金色のトランペット。
言われるままに、つい受け取ってしまうエウルナリア。
うっかり落とさないよう、彼女はそれを大事そうに両手で抱えた。
ふと見ると、逆に手の空いたグランが両手でエウルナリアの退路を絶っている。
良からぬ予感に、少女は慌てた。




