4 乳母の手土産
「ご無沙汰しています、エウルナリア様!やっとお顔を見られて嬉しゅうございますわ。今日はお時間をいただき、本当にありがとうございます…!」
翌朝、朝食を終えて自室に戻ると、待ちかねていた来客があった。
ふくよかな体躯を揺らしながら、おおらかな雰囲気とともに挨拶をくれたのは乳母のキリエだ。なつかしい温かみのある声に、胸がじわじわと嬉しくなる。
けれど…
エウルナリアの視界に入ったのは、キリエの斜め後ろに佇む少年だった。年の頃は同じくらいだろうか。水色の従者服がよく似合っている。
キリエやフィーネよりも少し栗色っぽい、艶やかな髪を後ろで一つに束ねている。瞳は灰色。涼しげな面立ちに緊張の色が見える。ひょっとして――
「お久しぶりね、キリエ。会いたかったわ。来てくれてありがとう。あの…ひょっとして、そちらは……?」
おそるおそる、何者なのか尋ねてみる。多分、思う通りの人物のはず。
「はい。こちらは私の息子で、貴女の乳兄弟にあたります。名前はレイン。長らくお側を離れていたのは、これを貴女の従者にすべく鍛えていたからですわ!」
キリエは誇らしそうに豊かな胸を張って告げた。もともとの貫禄が二倍増しだ。
その時、ようやく少年――レインが前に進み出て、右手を胸に当てて左手を腰の後ろに組み、優雅な仕草でお手本のような従者の礼をした。耳の辺りの真っ直ぐな後れ毛がさらりと流れ、端正な横顔に影を落としている。伏せた睫毛も栗色で、長かった。
「お初にお目にかかります、エウルナリア様。この度、貴女の従者として側仕えとなりました、レイン・ダーニクと申します。未熟な身ではございますが、誠心誠意お仕えさせていただきます。どうぞ宜しくお願いします」
「まぁ…!レイン。私に従者だなんて、今初めて聞いたからすごく驚いています。
こちらこそ貴方の良い主人となれるよう、がんばるわ。どうぞよろしくね」
同い年の少年の丁寧な挨拶に驚き、エウルナリアはつい、思ったことを素直な気持ちで言葉にした。萎縮させないよう、できるだけ好きになってもらえるよう、柔らかく微笑む。
主から声をかけられたレインは顔を上げ、目をエウルナリアから外せなくなったように固まっていた。更に緊張させてしまったのだろうか。顔が赤い。
(失敗したかな…どうしよう。できるだけ仲よくなりたいんだけど)
「…お嬢様。母は愚弟に従者としての教育はもちろん、殆どをピアノの指導に費やしていたんですわ。よろしければ、このあと離れでお聴きになっては如何でしょうか?」
この、何とも言えない空気を察してくれたのか、優秀な側付きであり、レインの姉でもあるフィーネが助け船を出してくれた。
はっ…と、我に返るレインと、ほっと詰めていた息を吐いたエウルナリア。似ているようで全く違う彼らを面白そうに見ているのは、キリエだ。
フィーネは、珍しくつん、と澄ましている。エウルナリアに対してのみ、いつも通りだが。
レインのピアノには興味があったので是非もなく、一行は――主に女性陣が談笑しつつ――離れへと移動した。
* * *
離れへ渡ると、サロンを通ってから小ホールに入るためのエントランスがある。
しかし、一行は階段を上がって二階のピアノ室に入った。間取りの六分の一はグランドピアノが占めているものの、聴き手のための椅子は六脚備えてある、がらんとした部屋だ。四名なら充分の広さだった。
ピアノは、エウルナリアも嗜み程度なら弾ける。だが歌ほどは入り込めない。
音そのものは好きなのだが、指を使うのがもどかしい。その点が上達の妨げとなっていると、昔、父から言われた記憶がある。
乳母のキリエのピアノは、豊かで優しい。
どんな歌でもエウルナリアの呼吸に合わせてくれたし、例え独奏でも途中からつい、合わせて歌ってしまう。それを受け容れてくれる懐の深さがあった。
(レインはどんな音なんだろう…)
どきどきするエウルナリアの前で、グランドピアノの椅子を自分に合わせて調節したレインが、浅く腰かけた。
ギッと蓋を開けて、白と黒の整然と並んだ鍵盤に視線を滑らせてから、そっと手を置く。まだ幼さの残る手だが、節の目立つ長い指だ。
束の間目を閉じて深呼吸し…口から細く息を吐いたあと。
そこには、今までと違う表情のレインがいた。