46 記憶の答え合わせ
「どう?エルゥ。熱は、まだある?」
さらり、と少女の黒髪を撫でる大きな手。
アルムはそのまま、エウルナリアの滑らかな額に手をあてて、心配そうに秀麗な眉をひそめた。
――夢にうなされた翌日、エウルナリアは大事をとって船室での安静を言い渡された。少し、熱が出てしまったせいだ。
おかげで、いつになく船室フロアは賑わっている。
従者のレインは言わずもがな。アルムは朝食前と朝食後、既に2回も見舞いに訪れた。
今は、3回目。
アルムは少女の寝台横の椅子に陣取り、他者を全く寄せ付けない。
キリエやフィーネは別として、レインは扉の向こうだ。
ちなみにアルムが娘の船室を占拠するまでは、グランと騎士達が。次に、楽士達の中から選抜された各パートの長達が、それぞれ少女の元へ見舞いに来てくれた。…そして何故か、水夫達の心配そうな声も、通路から聞こえた。
正直、体を休めるどころではない。エウルナリアは、込み上げる笑いの衝動を抑えるのに、時々くるしくなる。
――夢は、確かに辛かったけど、今はすごく温かい。
(でもきっと、こんな機会はなかなか無いよね…)
見るともなく見上げた、父の実年齢より若く見える、整った綺麗な顔。
…こんなに長い時を一緒に過ごすことは、もうないかもしれない。
エウルナリアは、ほんの少し勇気を出して、枕元の父に問いかけた。
「あの…お父様は、私と過ごす時間がもっとあればよかったと…思うときは、ありますか?」
黒髪を撫でる手が、ぴたりと止まる。
表情は、驚きで固まっている。
言われたことに理解が追い付かない、という風情だ。
そこから何とか立ち直ったアルムは、ようやく口を開いた。あくまでも静かに、柔らかいppp くらいの音量だ。――つまり、とても小さく。
「あるどころか…いつも思ってるよ。正直、もうお仕事はやめたいくらいだ」
「え…さすがに、それは…だめですよね?」
「うん。私にしかできないことが山ほどあって、エルゥの側にいる時間をがりがり削られて。この上長期遠征なんて、耐えられない。
だから、同行してもらったんだ。今回のセフュラは」
「では、前回は?」
夢が、記憶が正しければ、それは――
エウルナリアはつい、食いぎみに問いを被せた。
アルムは気にすることなく、顎に手をあてて彼自身の記憶を探る。
出てきたのは、もうppp でも何でもない。普通の音量のテノールだ。しかも、滔々と話し出した。
「確か、君が四歳のときだったかな。辛かったよ~。エントランスで君はずっと泣いてるし、泣かした私を、レインは蹴ってくるし。話に聞いたら、船を見送りに桟橋まで来てたらしいけど、かえって余計に泣かせたとか…
あれ以来だね。特に、セフュラは行きたくなくて、ずっと断ってた」
「それは…初耳です」
さすがに、驚きを隠せない。べつの角度から見ると、こうも事象は変わるのか…と、少女は愕然とした。
そこで、昼食を届けに来てくれたキリエが会話に加わる。偶然なのか、タイミングを計っていたのか…手に持った木のトレーのスープが溢れないよう、そっと備え付けのテーブルに置くと、染々と話し始めた。
「あのときのお嬢様は、本当においたわしゅうございました。
アルム様を蹴ったレインはさすがに、その日の夕方まで懲罰室に閉じ込めましたけど…あの子は、あの頃から図太くて。
桟橋から、泣き疲れて眠ってしまったお嬢様をお連れして帰って、様子を見に行ったら、けろりとしてましたわ。『だって、あれはアルムさまが、わるいでしょ』って!
…本当、これでもまだ何とか、矯正できた方ですのよ…」
お察しします、という空気が父娘の間を流れた。
――これ、わざと扉の前のレインに聞かせてるよね?
「まぁ、そんなわけだから…エルゥ。私は、今生きている人間では君が一番大事だよ。だからこそ、頑張ってるつもりだ。勿論、私も寂しいが…きっと、それぞれの時間でしか得られないものも、あったはずだよね…って!エルゥ?だ、大丈夫?熱が辛いの?」
気がつくと、頬が熱い。目じりも。
――嬉しくて、泣きそうになったことに気がついたエウルナリアは、恥ずかしそうに微笑みながら、父にお願い事をした。
「平気、です。…あの、甘えてもいいですか?」
控えめに、両の腕を父に向かって差し出す、黒髪の少女。
破顔したアルムは勿論、ありったけの気持ちを込めて、優しく愛娘を抱きしめた。




