45 遡った、幼い記憶
揺れる船室で、エウルナリアは夢を見た。
遠い、昔の出来事なのかもしれない。
在りし日の、まだ三~四歳ほどの黒髪の幼女が泣いている。
本邸のエントランスだ。
使用人の皆が困り果てた顔で、キリエとダーニクを呼んでいる。いつも通り、父はいない。
「――――?」
「…――――」
夢だからか、声が聞こえない。音すらない。
どこか、粘りのある水か油の中で動いているようなもどかしさを、夢の中でエウルナリアは感じた。
慈しみにあふれた、今よりも細身のキリエが、泣き続ける幼女に手を伸ばし、そっと抱いている。
「――――…?」
「――――!…」
何かを言い合うダーニクとキリエ。しかし、やがて折れたのはダーニク。
――場面が、予告なく、ぐるりと転換した。
…桟橋だ。
セフュラではない。蓮がないし、そこまで立派なものではない。小さな、牧歌的な桟橋。
ちゃぷ、ちゃぷと水の音だけはわかる。岸辺に寄せる湖水――何故か、海ではないと思った――は、とても透明で、幼女でも手の届く砂地の底を、砂の粒まではっきりと見せている。
幼いエウルナリアは、素足で湖水と戯れ、更に、もっちりとした小さな手で砂を掬ってはポチャン!と、手当たり次第に足元に落として飛沫をあげさせている。…やんちゃだ。
表情は――泣いていない。無心に遊んでいるようだ。
だが次の瞬間、ふと手を止めて、視線を湖の彼方へと彷徨わせた。
手前の、浅いところではいくつかの小さなボート。遠くの湖上には、まるでこの船のような、細長い帆船。
舳先は、南の大河を向いている。
すぐ隣で、一緒に遊んでくれていた十歳を少し越えたくらいのフィーネが、幼女の背にやさしく手を添えながら、向こうの帆船にす、と指を差して何かを話す。
「――――、――…?」
やっぱり聞こえない。けれど、黒髪の幼女は一瞬だけ青い目を輝かせ…すぐ、悲しげに潤ませてしまった。
慌てふためく、まだ少女のフィーネ。
おそらく、このあと幼女は再び泣いてしまうのだろう――
そこで、目が覚めた。
* * *
「エルゥ様…大丈夫ですか?うなされておいででしたが」
エウルナリアは半ば無理やり目を開けて、心配そうに覗き込むレインの灰色の瞳と、なんとか視線を合わせた。
――まだ、夢酔いのような感覚がする。
「…きもちわるい。起こしてくれる?」
青ざめた顔でもう一度目を閉じ、右の手のひらを上にして両目を隠すようにすると、目尻に溜まっていた涙が、手の甲をじわりと濡らした。
(夢に見ただけで泣くほど、あのときの私、辛かったのかな…)
差し出された左手をそっと取り、華奢な背中を支えながらゆっくりと半身を起こしてくれる、レイン。
起こして、と言いつつ、エウルナリアは自分の体を支えられなかった。目を開けようとすると、視界がぐるぐる回る。
「…ごめん、ちょっと、貸して…」
背を支えてもらっているのを良いことに、そのままレインの肩に頭を乗せて、体重を預ける。――ひとの温もりに、エウルナリアは何となく安心した。
「――――!…ッあの……エルゥ……さま?」
栗色の髪の少年は最初、気の毒なほど狼狽していたが――何とか持ち直したようだ。
少女の体調を把握するため、出来る限り確認しようと努めている。
「何か、お飲みになりますか…?」
エウルナリアは、頭を彼の肩に預けたまま、ふるふると小さく横に振った。
髪がくすぐったかったのか、レインが再び硬直している。…本当に、ごめん。
「たぶん…夢がつよすぎて、現実に戻りきれてない感じなの。このまま、でいい。なんにも、いらない…」
肩口から直接響く、寝起き独特の幼い口調。
レインは、ぐっと目を瞑って、内心の何かと必死に戦っているようだが…幸か不幸か、腕の中の少女に彼を気遣う余裕はなかった。
「僕は、これが夢なら覚めなくてもいいかなと思うんですが……エルゥ様が辛いと、僕も辛いです。本当に、何か出来ることはありませんか?」
エウルナリアは、ぐらつく視界に目を瞑りながら、レインの申し出をありがたく受けることにした。
「じゃあ…できれば、その、ぎゅっとして貰えたら。レインが無理なら、キリエかフィーネを呼んで――」
「呼ぶわけないでしょ」
早い。相変わらず、こういう時の返事が早すぎる従者だ。
そのまま、自分をぎこちなくも、優しく包む腕の主の鼓動が大変なことになっているのに気づくまで、少女は思う存分、温もりに癒された。
――エウルナリアにとって、「夜中に呼びつけて、甘えてもいいひと」の中に父が入っていないこと。また、そう思わざるを得ない幼年期だったのだと、驚くほどひっそりと、気づかされながら。




