44 少女と王の約束
「帆を張れぇー!」
ジャラジャラと鎖の音も賑やかに、蓮の茎をすり抜けて錨が素早く巻き上げられる。
昼下がりのセフュラ湖に、帆船を操る水夫達の怒号のような合図が、あちこちであがった。
天気は灼けつくほどの快晴、風も上々。
久しぶりに揺れる甲板を踏みしめ、船の縁に身を乗り出した小柄なエウルナリアは、見送りに立った国王ジュードを筆頭とするセフュラの人びとに、精一杯伸ばした白い手を大きく振った。
「ジュード様!約束ですよ、ちゃんと努力なさってくださいね!」
少女の、意外にもよく通る声量で届けられた言葉に、美丈夫たるセフュラの国王はつい、脱力して微妙な笑みを浮かべる。
風にはためく紅い長衣と、プラチナ色の髪。
いつもは不機嫌な獣のような紫の瞳が、レガートの歌長の姫君に対しては穏やかに、時にやさしく細められるのが、この三日間でキウォン宮の新しい常識となりつつある。
周囲の侍従や臣から生温かい視線を浴びたジュードは、半ば自棄になったように、しかしどこか吹っ切れたように、堂々とした深い響きのバリトンの声で、これに応えた。
「よかろう!姫との約束は必ず果たす!来年もまた来るといい…達者でな!」
海から吹く風をいっぱいに受けて膨らんだ帆は、たちまち楽士達の船を大河へと向かわせる。
ここから先は、河の流れをひたすら遡る帰り道――勤めを終えた彼らの、帰還の途だ。
手を振る黒髪の少女を乗せて、どこかやり遂げたような達成感を漂わせながら、帆船は蓮のセフュラ湖をあとにした。
* * *
「…で、どんな約束をしたの?エルゥ」
ずっと少女の隣に立っていたアルムは、船が大河の支流から本流に戻ろうかという頃、ようやく絞り出すように訪ねた。
対する黒髪の少女は、つよい風に乱される髪を押さえながら、少し不安そうに答える。
「あの…奥様方と、歩み寄る努力をなさってください、と。――進展がありましたら、またお会いしましょうね、と。…だめでした?」
アルムを含め、周囲にいた人びとは一様に「うわぁ…」という顔になった。
だがここで、勇気ある従者の少年が然り気なく、この場の意見を代表するように軽く挙手をしつつ主に問いかける。
「エウルナリア様。それは…ジュード王にとっては、貴女を呼ぶ体の良い口実になるだけでは?」
(勇者だ…勇者がここにいる!)
一同の心の声は合致した。――当事者である少女を除いて。
「?…口実もなにも、友人ですもの。遠くに居れば、会える機会があるのは嬉しいものではないの?」
エウルナリアは揺るがない。――もう、これは主の通常運転だと悟ったレインの対応は速かった。
にこり、と微笑み《そういうこと》にしてしまう。
「そうでしたか…失礼しました、エウルナリア様。『友人』っていいですね。僕は遠方に住まう友達がいないから、わかりませんでした」
爽やかすぎる引き際に、内心で感嘆の声を洩らす一同。
アルムは、涼しい顔の少年に、今も邸の留守を手堅く守っているだろう家令の男性の面影をちらりと見た気がした。
「君、時々いい仕事するよね…」
「お褒めにあずかり、光栄です」
きっちりと従者の礼で応えるレイン。
彼もまた、この旅程で色々とあったはずだが、常と変わらない。
揺るがない主従と渦巻く想いを乗せて、帆船は一路、大河を北へ向けて遡上した。




