43 旅の終わりに
レガート皇国楽士団、夏期のセフュラ遠征三日目の朝。
朝食のために小宮殿の広間に集った団員達は、久しぶりの一日休暇の後ということもあり、明るい表情の者が非常に多い。
幾何学模様の格子からは無垢な朝陽が差し、窓辺に切り絵のような影を刻んでいる。
今日も、晴天か。
「よ。おはよ」
「おう」
実力で選ばれる彼らは、貴族平民といった身分の垣根があまりない。互いの楽器や演奏の癖、音楽の好みのほうが余程派閥の種となる。
今、同じ小卓に着いて気楽な挨拶を交わしたのは、貴族のチェロ奏者と平民のコントラバス奏者――行きの船上演奏での、低音パート担当者達だ。
直ぐに担当の女官が傍らに来て、「おはようございます」と微笑みながら食事の配膳を整えてゆく。
小麦粉を練って、鉄板に薄く伸ばして焼いたココナッツ風味の平たいパンに、オレンジの果汁。刻んだ根菜と挽き肉を香辛料で炒めた具をふんわりと包んだオムレツに、数種類のハムと薄味のメロン。
――いつもならここで、目の前の食事や当日の予定などで、会話が始まるのだが…
「俺、ヘ音記号の黄色だった。お前は?」
「四分音符の赤」
「まじか。正統派だな」
「お前は…変化球だな。交換するか?」
「いや、いい。折角直接手渡しで貰ったのに、勿体ないだろ。というか、この渋可愛い感じが堪らん」
「わかる。俺も楽譜は大概ヘ音記号だからな…でも、正統派も悪くない」
第三者が聞いても、色々な意味で全くわからない暗号の羅列。
――それは、未来の歌の姫君が彼らにくれた、初めての探検のお土産に関する話題だった。
エウルナリアは楽士達へのお土産に、黄色っぽい真鍮で出来た楽譜どめを選んだ。
様々な音楽記号をモチーフとしており、裏側がクリップになっている。大きさは、十歳の子どもの手のひらに収まるもの。
朝の光を受けてきらり、と輝くのは金によく似た合金の光沢と、嵌め込まれた粒ほどの小さな色硝子。
故に、なんと誰一人同じモチーフと色の組み合わせでは被らない。発注したエウルナリアの希望通り、完全なるオリジナルの記念品と化していた。
のちに彼らは、レガートに残った他の楽士達から、凄まじい羨望の眼差しを向けられることになるのだが……それはまた、帰国後の話である。
* * *
「今日の昼過ぎには出立だね。どうだった?エルゥ。初めての国外旅行は…――あの馬鹿は、さておき」
小宮殿の二階の個室にて。
滞在三日目でようやく水入らずとなった父娘は、ともに異国の料理を味わっている。
メニューは他の楽士達と変わらない。
強いていうならば、アルムの手元に華奢なグラスに注がれた白葡萄酒が添えられていることくらいだ。
父から問われた黒髪の少女は、ここで派手に捕獲された初日の事案を思い出したのか、ふふっと声に出して笑った。
「楽しかったですわ。道中も、着いてからも、何もかも。ジュード様も、お話してみたら良い方でした」
頬を染めて幸せそうに微笑む愛娘に、アルムの濃い緑の目が和らぐ。一部、もっと詳しく訊きたい箇所もあったが、あえて流して再度問う。
「…何か、私に聞きたいことはある?今なら一つだけ、答えるけど」
「……」
アルムの試すような口振りに、エウルナリアの手が止まった。暫くの間、青い目が伏せられる。視線は小卓の上の虚空に向けられたが…――愛らしくもきっぱりとした声は、導き出された答えを淡々と静かな客室に響かせた。
「いいえ、お父様。あのとき『教えない』と言われたことを聞くつもりはありません。
おそらくユーリズ先生も、答えは私が自ずと出せるとお思いですから」
正面を見つめる目には、迷いも戸惑いも、過信もない。…その色はどこか、湧き水豊かなレガート湖の、澄みきった深い場所の《青》を思わせた。
娘の返答に、アルムは手元のグラスを軽く掲げ、満足そうに甘く整った顔を綻ばせる。
「合格」
相変わらずの父に、「仕様のないひとですね」と微苦笑を浮かべたエウルナリアは、ほぅ、と肩の力を抜くと、開け放たれたベランダの向こうの空を瞳に映した。
明日には着く、久しぶりのレガートを思って。




