3 少女にとって、甘いもの
エウルナリアは、父とのお茶会という名の進路懇談会が終わってから二階の自室へと戻り、ほぅ、と一息ついた。
クリーム色を基調にした優しい配色の部屋だ。明るい萌木色の絨毯と、濃淡の緑やピンクの花模様のファブリックがアクセントになっている。
色々と驚かされることもあったが、将来のために今は具体的に動かねばならない、という現状に、少女はわくわくしている。
大好きな「歌うこと」以外も身に付けないといけないんだなと、前向きに理解できた。
ちらりと窓際に目を遣ると、飴色の書き物机にユーリズ女史から与えられた課題がそれなりに乗っている。
――まずは、ここからか。
(一、二時間くらいかかるかな…)
窓の外はまだ明るいが、少々ゆっくりし過ぎたかもしれない。父も、今頃は書斎で家令のダーニクから搾られているのかも…などと思うと、自然と頬が緩む。
その時、コンコンと扉を叩く音がした。
ちょうど椅子に腰かけて、課題の冊子をめくり始めていた少女は、軽い調子で「はーい」と返事をする。
カチャリと扉が開けられ、そっと身体を滑らせてきたのは、見慣れた濃紺のメイド服に身を包んだ若い女性だった。
「お戻りだったのですね、お嬢様。お帰りなさいませ」
「うん。ただいま、フィーネ」
「たくさん、新しい先生から課題を頂いたんですね…どうです?難しいですか?」
心配そうに手元を覗き込む若いメイド――フィーネは、エウルナリアにとって乳姉妹にあたる。淡い金髪をきちんと編み込み、優しい茶色の瞳をした穏やかな女性だ。
彼女の両親はともにレガティア学院の音楽科を優秀な成績で卒業しており、フィーネもこの春、晴れて学院を卒業し、正式にバード家のメイドとなっていた。
ちなみに、当時四歳だったエウルナリアに簡単な読み書きを教え始めたのは彼女だ。
主家の娘への距離の近さは問題だったかもしれないが、母親も兄弟もいないエウルナリアにとって、彼女は昔から、大事な姉のような人だ。
「大丈夫。大体は、前にみんなから教わった範囲だから。今日は建国史と制度をちょっと詳しくしただけだよ」
「そうですか?控えておりますから、もしわかりにくいところがあれば、いつでもお呼びくださいね」
「うん。ありがとう」
(なるほど…これを今まで当たり前にしてたのか…)
多分、これから先もずっと変わらないだろうフィーネの甘さは、使用人の中でも折り紙付きだ。先程父から指摘されたこともあり、エウルナリアはそっと苦笑してしまう。
――しばらく集中して平積みになった冊子に目を通し、ペンを走らせること一時間半。
順調にこなせたおかげか、窓の外が夕暮れのオレンジ色の光を湛える頃には、何とか今日の課題を終えていた。
「終わったぁ~…」
「ふふ、お疲れさまでした」
ずっと、部屋で静かに仕事をしながら控えていたフィーネが、微笑んで主を労う。
「どうなさいます?夕食までもう少し時間がありますけど。よろしければ蜂蜜入りのミルクティーなどお持ちしましょうか?」
(甘い!甘すぎるよフィーネ!…でも嬉しい…)
結局、淹れてもらってしまった。美味しいに罪はないので、思う存分甘味に癒されることにする。
そんな様子をニコニコと見つめていたフィーネだが、ふと、思い出したように口を開いた。
「そう言えば、お嬢様がお勉強中に一度、母が来ました」
「え?キリエが?すごく久しぶり!通してくれて良かったのに」
「明日の午前中にまた来るそうですよ。きっと、お土産付きです」
「そっか……じゃあ、明日楽しみにしてるね。一年ほどかな?留守にしてたの。結構寂しかったんだよ。キリエのピアノ、好きだもん」
「ピアノが目当てだなんて、お嬢様らしいですね」
くすくすと笑われて、膨れたエウルナリアは慌てて弁明のために椅子から身を乗り出した。ぺちぺち、と控えめに机を叩く一応の抗議つきだ。
「あのね!キリエのピアノで歌うとすごく気持ちいいのは確かだけど、それだけじゃないからね?」
「ふふ、そうですよね。でも私達は、お嬢様にそう言っていただけると、とっても嬉しいんですよ」
「えぇぇ……?」
――解せぬ。
どこか、はにかんだ様子にも見えるフィーネに、エウルナリアは念を入れた。
「お願いだから、もう少し人として主張して。楽器は、その人あってのものでしょ?」
「えぇ。勿論です」
――フィーネは時々、底が見えない。
特別扱いが過ぎてちょっぴり居心地わるいけれど、全力で甘やかすのが通常運転のメイドは、揺るがずニコニコしている。
仕方がないなぁ、と笑んでから、エウルナリアはミルクティーの残りを飲み干した。
窓の外では、部屋の空気と同じようにゆるやかな時間が流れて、青灰色とオレンジの空の反対側に、藍色の夜空が混じり始めている。