38 セフュラの国王
「エルゥ!」
目の前で愛娘を捕獲されたアルムは、慌てて自身も部屋の入り口に駆け寄った。途中、ジュードが落とした薄布の上着を拾うのも忘れない。平静を欠いていても、紳士である。
左腕だけで少女を抱き上げた、紳士ならざる異国の王は、右手で上着を受け取ると、ごく軽い調子で礼を言った。
「…あぁ、すまんな。――どうだ?お前の娘ときたら。まるでセフュラの神話にある、湖の蓮の女神のようだ。……いいな、貰えないか?」
「だめに決まってるだろう。しかも、本気で言うんじゃない」
ジュードは、受け取った透ける藍色の上着をそのままヴェールに見立てて、エウルナリアの柔らかい黒髪に被せてご満悦だ。しかも、物騒な冗談まで飛び出ている。――冷めた顔のアルムが、即座に切り捨てたが。
黒髪の少女は、一見したところ静かだが、ずいぶんな急展開と慣れぬ視界に、内心かなり戸惑っている。
ふと見ると、いつの間に入室したのか、レインがアルムの傍らで方膝をつき、頭を垂れていた。
「御前、失礼いたします。…申し訳ありません、アルム様。お止めできませんでした」
苦みを帯びる少年の涼しげな声を、アルムも渋い顔で聞く。
「うん、まぁ…だろうね。仕方ない。君のせいではないよ、レイン。どうせ動かなかったんだろう?いつから来ていた?」
「お前が『いやです』と言った、次くらいだ」
「結構、前だね!」
(うわぁ…じゃあ、覗く前には気づかれてたのね…)
エウルナリアは理不尽な敗北感に苛まれたが、とりあえず今は、自分を捕らえて嬉しそうなジュードに解放を願い出ることにする。
「あの…陛下?初めてのご挨拶が、こんな高いところからで恐縮ですわ。降ろしていただけます?」
「だめ。挨拶ならこのままでどうぞ?」
「えぇ…」
容赦がない。笑顔なのに。
アルムは、諦めたように何度目かのため息を吐いた。
「エルゥ。そのおじさんはね、私の学院時代の悪友なんだけど、昔から話が噛み合わないんだ。聞きたいことしか耳に入れやしないから、そのまま挨拶してあげて」
「おじさんじゃない。ジュード様、と呼んでくれる?」
男らしい美貌に、向ける対象を間違えているのでは…と思えるほど蠱惑的な笑みを浮かべる国王陛下に、エウルナリアは――腹を括って、譲歩した。
す、と青い瞳に力を込めて、出来るだけ強かに映るよう、にこりと微笑みながら口を開く。
「では、改めまして…
ご機嫌よう、ジュードおじ様。初めてお目にかかります。レガートの楽士伯、アルム・バードが息女、エウルナリアですわ。
お父様とのお話を中断させてしまったこと、深くお詫び申し上げます。どうぞ、私を降ろして、お続けになって?」
「……」
「わぁ。言ったね~、エルゥ。流石は私の娘だ」
「……ふ、ふふ…あははっ!」
しばらく固まっていたジュードは、突然笑い出した。しかもそのまま、ぎゅっと抱き締めてくる。苦しい。
「こら、ジュード!」
「エルゥ様!」
アルムとレインの制止の声が重なった。
瞬間、エウルナリアを腕に閉じ込めたままのジュードが、紫色の視線を栗色の髪の従者に向ける。
そうして、さんざん見つめたあと、ふっと勝ち誇ったように嘲笑った。
「――――ッ!」
途端に、灰色の目に強い光が宿ったが、表情は変わらない。ただ、目をそらさずに主を捕らえる理不尽な大人を見据えている。
そのまま、しばらく経過するかと思えたが――
異国の王と従者の少年の間で、妙に緊迫してしまった空気を融かしたのは、やはりと言うかアルムだった。
「はいはい。わかったよ、ジュード。私も大人だからね、譲歩しよう。…ものすごく嫌だが、宴の間、エルゥを君の側に置くのを許可する。代わりに、彼女の歌はまだお預けだ。いいね?」
出された条件に、紫の瞳の国王は一瞬考えて、ゆっくりと答えた。
「…仕方ないな。わかった」
エウルナリアは「もう、何でもいいからとにかく降ろして!」と言うのを辛うじて堪えつつ、条件を付け足した。
「あの…私の従者も、側に置いていただきたいのですけど」
耳元で聴こえた、鈴が鳴るような愛らしい声でのお願いに、ジュードは快諾する。
「あぁ、構わない。君のことを、私も『私の姫』と、呼んでいい?」
「だめです」
「断る!」
「……年の差…」
部屋に響いたのは、三者三様の答えだった。




