37 キウォン宮の宴※
アルムの歌声は中性的だ。
正確に言うと、高音部は男性とも女性ともつかぬ、透明でよく通る声。中音部はそれに少し深みと、時おり艶が加わる。低音部はより力強く、深くどこまでも広がる声。それで、どこにも裏声は使わない。
――エウルナリアは、アルムの裏声も儚げな響きで好きなのだが。
アルム曰く、楽団のオーケストラと共に歌う時は、そういう作法らしい。
ともあれ、父は今日も絶好調だ。
日も暮れたキウォン宮の公式な催事用の広間で、今、彼は歌っている。
外は、宵闇の帳が降りたばかり。月は白く、どこまでも細い。その分ささやかに煌めく星明かりが、聴客の一人であるかのように、静かに地上に降りていた。
上座にはセフュラの国王が一段高い場所の玉座に座り、その家族が周りを固めるように、背にクッションをあてがって、絨毯の床に寛いだ様子で侍っている。
大広間の周囲をぐるりと囲むのは重臣や、主だった貴族達。やはり背に筒状のクッションを置き、床の敷物に直接座っている。
その更に外側、大回廊には警備の兵が等間隔で立っている。
急きょ、エウルナリアの乳姉妹であるフィーネもビオラ奏者として組み込まれた皇国楽士団は、総勢四十一名。
彼らは下座にあたる入り口付近を背に大広間の中央を陣取り、レガートとは違う、温度や湿度の高さをものともせず、いつも通りの素晴らしい演奏をしていた。――主旋律は歌い手に委ねてあるので、その役割は対旋律と伴奏とで、徹底されているのだが。
アルムは主旋律として彼らが構築した音の波を背に、身体そのものが一つの楽器であるかのように、聴き入る人びとの間に余すことなく美声を響かせる。
高く低く、時に朗々と、時に秘めやかに、囁くように。
歌う姿も演奏のうちと言うべきか…普通、人は聴き惚れると目を瞑るものなのだが、王を囲むご婦人がたは、視線がうっとりと固定されていた。
(うん。お父様、歌ってるときが一番色気があると言うか、格好いいものね…仕方ない。本当、いい声…)
異国の宴に相応しく、うつくしく着飾ったエウルナリアは、目を瞑って父の歌と楽団の演奏に心を委ねていた。
この場では最もあり得ない特等席――上座の国王、ジュード一世の膝の上で。
* * *
「いやです」
時を遡ること数刻前、小宮殿にて。
宴のための装いが整ったので見てもらおうと、エウルナリアが父の部屋に向かったとき、その声は聞こえた。
――父の、あんな声は珍しい。
後ろに従者の正装をしたレインを控えさせ、そっと部屋を伺うと、同じく夏の正装となったアルムの後ろ姿と、見たことのない男性の姿が見えた。
さらさらと流れるプラチナ色の髪は、アルムのように襟足で短く整えられているものの、うつくしい。長めの前髪が無造作に上げられているので、秀でた額と意志の強そうな眉がくっきりと見える。瞳は紫。日焼けしてはいるが、きめ細かい肌。アルムを上回る長身――とんでもない、美丈夫である。
しかも、美丈夫が身に付けているのは、セフュラらしい緩やかな白絹の長衣。袖を通さず、肩から羽織っただけの上着は透ける藍色。縫いとられた刺繍は金糸でセフュラ湖の蓮を、銀糸で湖面を意匠化したもの。
エウルナリアでも、一目で相当身分の高いひとだとわかった。
後ろでレインが、そんな主の肩に「もう、戻りましょう」と言わんばかりに軽く触れたが、残念ながら、好奇心が勝った少女は動かない。
「なぜだ?連れてきているんだろう。目撃情報は、既に上がっている」
美丈夫は悠々と腕を組んで、にやりと口の端を上げる。
表情はわからないが、その背中を見る限り、アルムはひどく不機嫌そうだ。
「…いやだと言ったら、いやだ。
なぜ私が、君の要請通りわざわざ早朝に来て、奥さん方との朝食に付き合ってやったと思ってる?馬鹿も休み休み言え」
「要請ではない。とても丁寧な招聘だった。…勿論、大まじめだ。いやぁ、あれは助かった。奴等ときたら、本当にわかりやすいな!」
すごく、いい笑顔の美丈夫。
アルムは、はぁ…と溜め息を吐き、天を仰いだ。
「主観の違いというのは悲しいな…ジュード。二十年前から、君のその残念さは変わらない。仕事でなきゃ、来ないよ。こんな面倒な奴のところ」
「ほぅ。そこまで言うか…なら、いい。実力行使だ」
笑みを深めた美丈夫――ジュードは、狙いを定めた獣のような俊敏さで、部屋の入り口に近づいた。
(え?)
突然、紫の目がかちりと焦点をこちらに当てたことに気づいたエウルナリアは、慌てて逃れようとしたが――間に合わなかった。
「初めまして、アルムのお姫様。私はジュード。君のお父さんの友達で、ここの王様だよ」
青い目を驚きに見開いた少女は、そのまま有無をいわさぬ力で、強引に抱き上げられた。
――捕獲、とも言う。




