32 姫君の探検(2)
「おや。姫君、お出掛けですか?」
小宮殿で朝食をとったあと、エウルナリアは広間で顔見知りの楽士に声をかけられた。
――確か、昨夜チェロを弾いていた男性だ。
にこり、と微笑んだ少女は朗らかに答える。
「はい、街に出てみようかと…皆さんは、夜に備えて休憩ですか?」
「えぇ。どうしても夜型になっちゃうんですよね。本番が宴とか、晩餐会なので。本当は折角の遠征だし、自分も太陽の下で活動したいな、とは思うんですが…」
そう言って、目の上に手を当てて庇をつくり、眩しそうに窓の外を見ている。
なるほど、確かに船でも昼間は、ほとんどの楽士が船室で休んでいるようだった。あれは一種の職業病らしい。
いずれ自分もそうなるのか…と、想像してみたが、今一つイメージ出来ない。
ふふ、と笑った少女は、昼間に行動できないと嘆く可哀想なチェロ奏者を、何となく励ましたくなった。
――澄んだ青い瞳を少し伏せて、考えながら一つずつ、大切な言葉を選ぶ。
「…でも、きっと皆さんの演奏で、笑顔になる人はいっぱいいると思いますよ。
私、昨夜はちょっと困ったことがあったんです。でも、あの時の貴殿方の演奏に、助けてもらって…背中を、押してもらえました。
皆さんの演奏は、素敵です。大事な昼の時間を費やして、しっかりご自身を管理してる賜物ですもの。ね?」
果たして、伝えられただろうか…と、伏せていた瞳をあげると、さっきまで彼を覆っていた気だるさが、何処かへ消え失せたような顔つきをしていた。
チェロ奏者は、ふ、と柔らかく微笑んだ。
「…ありがとうございます。貴女の言葉、昨夜の連中にも聞かせてやりますよ。
どうぞ、お気をつけて。目一杯、楽しんでらして下さいね」
そこにいるのはもう、疲れた大人ではない。にっこりと笑う、一流の奏者の顔をした、皇国楽士の一員だ。
「こちらこそ。声をかけていただいて、ありがとうございます。何か、素敵なものを見つけたら、お土産に買って来ますね」
エウルナリアは奏者に笑いかけると、ひらりと手を振って、レインと護衛の騎士と待ち合わせをしている小宮殿前の噴水へと、足を向けた。
* * *
時刻は、朝の九時。
南国の陽射しは、まだまだこれからだと言わんばかりの光を投げて寄越して来る。
エウルナリアはチェロ奏者と別れたあと、軽やかに駆けて、待ち合わせの噴水に一番乗りで到着した。
日除けのケープを被った黒髪の少女は、葉陰になっている噴水の縁に腰かけて水音を聞きながら、見るともなしに底の石に揺らめく光の水紋を楽しむ。浮かぶ赤い花の影が水底をたゆたい、いつしか手を差し入れて遊びながら、時間を忘れていた…――が。
「エルゥ様っ、お待たせしました!」
「お待たせしてすみません!エウルナリア、様…?」
ほぼ同時に着いた栗色の髪の少年と、赤髪の少年の声に、現実に戻された。
二人の少年は、無表情に互いを見ている。
間に立った少女は、訝しげな思いで二人を交互に見つめ、…首を傾げた。
(ん…?初対面に近くはあるけど、仲が悪くなるほどの面識もない、よね?)
「大丈夫よ、レイン。グラン様。ちっとも待っていない…じゃなくて…いませんわ?」
うっかり、レインと居るときの口調が出てしまったエウルナリアは、狼狽しながら言い直す。
その様子を見たグランは、機を得たり、とばかりに「はい」と、右手を挙手すると、一つの提案をした。
「エウルナリア様。私――いや、俺に敬語はいいですよ。爵位も下だし、四男ですから」
「えっ…。だ、だめです!それならグラン様も、私に敬語は使わないでください!」
「…あぁ、いいよ。ついでに敬称も取ろうか。
様は、いらない。グランと呼んでほしい」
本来はきつい紺色の目を、にこっと和ませたグラン。
思わず慌てていたエウルナリアも、ふと気づく。
――何か、嵌められてる?
「…よろしいんですの?」
「うん。折角バード卿の許しも貰えたし。
君と、友達になりたいんだ。エルゥって呼びたい」
グランは、一旦ぴしりと姿勢を正すと、真剣な光を宿した紺色の目で、じっとエウルナリアを見つめた。
(うーん…。邸の離れが純粋な目当てだと思うんだけど…まぁ、いいかな?本当に、楽器が好きなひとみたいだし)
「わかったわ、グラン。よろしくね?今日の護衛さん」
黒髪の少女に名前を呼ばれた少年は、それは嬉しそうに相好を崩した。
「あぁ。宜しく、エルゥ。――そっちも宜しく、えぇと…」
「…レイン・ダーニクです。グラン様。エルゥ様の専属従者を勤めております。本日は宜しくお願いします」
折り目正しい従者の礼をとるレイン。
レインが『エルゥ様』と言ったとき、凛々しい眉をぴくん、と跳ねあげたグラン。
――なんでだろう。空は晴れてるのに、雲行きがおかしい…
「…とりあえず、行こっか!」
エウルナリアは、当面の目的を優先させることにした。




