30 父の仕事、娘の課題
それは、濃い夏の緑に囲まれた白亜の神殿のようだった。
無事にレインと仲直りをしたエウルナリアは、今、一夜明けてセフュラの王都キウォンの小さな湖の畔に立ち、古の神話に出てきそうな宮殿を見上げている。
「すごい…綺麗」
楽士達の一行は、歌長の腕に抱かれながら、鈴が鳴るような声で素直に感嘆を洩らす黒髪の少女を、微笑ましい思いで見つめた。
* * *
そもそも、夜明けと同時に大河の支流から抜け出た先の湖が、圧巻だった。
透明度も大きさも、レガート湖の比ではないが――一面に、蓮の花が咲いていたのだ。
すっかり下船の準備を整えて甲板に出ていたエウルナリアは、その景色に見入った。
夜明けの光にうっすらと輝く朝靄の中。水面に咲く、白や薄桃色の蓮の花と丸い葉を分けながら、帆を畳んだ帆船は湖の中央まで伸びた木の桟橋で停まり、錨を降ろす。
桟橋は、そのまま岸へと続いていた。
聞いたことのない鳥の高く囀ずる声や、どこか長閑にホーゥ、ホーゥと響いてくる鳴き声。
薄明の中を、総勢四十余名の皇国楽士団一行が、静かに進む。
皆、昨夜の甲板で繰り広げていた酒場のようなくだけた雰囲気は、すっかり払拭している。どこから見ても、見目よい一流の楽士達だ。
揃いの、紺に銀糸の縫いとりを施した夏用のマントを、各自が好むように着こなしている。
今回は演奏者自身が持ち運べる楽器しかないため、移動も楽だと聞いた。――『どれほどの規模の楽士を呼ぶかは、招く側の懐次第だよ。ちなみに、私を呼ぶ対価は弦楽器五十名と同じだね』とは、歌い手の長である父の言葉だ。
今回は、弦楽器を中心とした四十人編成と、歌い手としての父ひとり。
…セフュラ王は、なかなか奮発したと言える。
「さ、おいで。エルゥ」
歩幅が小さいので、どうしても遅れがちになる娘に、アルムは手を伸ばす。エウルナリアは、そのままふわりと抱き上げられた。
* * *
「ところでお父様。これって、本当に旅行ですの?」
「旅行だよ?どうして?」
「あの…普通は、旅行でその国の王様に会ったり、王宮に泊まったりはしませんわ」
「うーん。私はこれが普通なんだけどなぁ」
いかにも困った、という風情でアルムが微笑むと、宮殿の奥へと進む長い回廊のどこかで「きゃあぁ!」と女性の嬉しそうな声が響いた。しかも複数。
少女は、今は自分より下にある父の整った顔に、じとり、と低い温度の視線を向けた。
「…お父様って、どこにいらしてもご婦人から騒がれますのね…」
「わかってもらえて助かるよ、私の姫君?」
(いえ、理解してるんじゃなくて、呆れてるのですけど…)
まぁいいか、と流してあげることにしたエウルナリアは、ふと気づいたことを口にした。
「ねぇ、お父様。外国に行って一国の王と会ったり、お話しする機会があるのは、普通は王族の方や高位の聖職者、それに高位の大臣や外交官くらい…なのでは?」
アルムは、腕の中の娘におや、と少し眉を上げて見せる。まじまじと見つめてくる青い瞳に、にっこりと笑いかけた。
「機密だよ」
(――!)
どこかで、またご婦人の悲鳴が響いていた。




