2 家のこと、未来のこと
バード楽士伯家は、レガート皇国の始まりからある由緒正しい貴族家だが、その邸宅はさほど広くも豪華でもない。
きちんと手入れされた庭や外壁。人が気持ちよく過ごせるよう、丁寧に整えられた内装。
邸の出入り口であるエントランスもそこそこ広く、輝くクリスタルのシャンデリアが高い天井で光を煌めかせている。
――だがそれは、高位貴族の邸宅としては慎ましいとさえ言える、ごく平均的なもの。
バード邸の場合、その最たる特徴は徹底した音楽環境の充実にあった。
邸の一階最奥、当主の執務室の手前左手には、庭を横断するように真っ直ぐ、長い通路が伸びている。
南の“本邸”と北の“離れ”を直接繋ぐ渡り廊下だ。
離れには、歴代のバード家当主が収集してきた楽器のすべてが納められている。
――実際は本邸と繋がっているので、もはや、現実的な意味で“離れ”とは言いがたいのだが…
その要因となった渡り廊下は、当主とその家族が天候を気にせず気軽に通えるよう、数代あとに作られたらしい。本当にやることが徹底している。
建物としての離れは、一階は五十名ほどの収容が可能な小ホールと、休憩用のサロン。二階は各楽器の部屋と個人用練習室、合奏室。三階は主に楽譜を集めた図書室フロアとなっている。
ちなみに、宿泊できる設備はない。過去、本邸に戻らず楽器部屋に入り浸った当主がいたためだ。
同じ理由で本邸への楽器の持ち込みも禁止されている。線引きをきちんとしなければ実家に帰る、と泣きついた奥方がいたらしい。
エウルナリアを片腕に抱いたアルムは、執務室に控えていた家令の男性に離れのテラスでのお茶の支度を言いつけてから、件の渡り廊下へと向かった。
* * *
離れに着くとすぐ、サロンがある。
採光のために大きめにとられた窓の向こうには、奥庭が見えた。菫や野ばらなど、小ぶりの花が配置されたささやかな庭だ。
芝で整えられたそこには、今日のような天気の良い春の日にぴったりのテラス席がある。すでにメイドがお菓子や紅茶の準備をして待ってくれていた。
(…どうやって先回りしたんだろう…)
まだ子どもである自分にはわからない仕組みがあるのかも知れない、と思うことにしたエウルナリアは、父によってふわりと白い優雅な曲線を描く背もたれの椅子に座らされる。
ほどなく、向かいの席に父が座ると、目の前のテーブルに置かれた茶器に、温かな湯気の立つ紅茶が注がれた。
徐に、父の視線が真っ直ぐに娘へと向けられる。
エウルナリアは、また何か大事なことを告げられそうな予感がして、少しだけ身構えた。
「エルゥ。“皇国楽士団”って知ってる?」
「え?…はい、知っています。レガートの公式使節団でもある楽団ですよね?今日の歴史の講義でも教わりました。国内行事はもとより他国の招聘にも応じて派遣される、と。お父様は、その歌い手の長なのでしょう?」
「うん、大体合ってる。さすがユーリズ準男爵の娘さんだ。仕事が早い」
アルムは満足そうに、香り高い紅茶を一口含んだ。
つられてエウルナリアも白い陶器の茶器を持ち、ふぅふぅと息を吹いて冷ましてから飲もうとする。――猫舌はこういう時、つらい。
メイドや父から生温かい微笑みが向けられている気がしたが、まるっと無視した。
娘が熱い紅茶と闘っているのを一通り眺めたアルムは、カチャリ、と茶器を皿に戻して再び口を開く。
「実はね…まだ先の話ではあるけど、君は一人っ子でしょう?私は今後も、君のお母さん以外の奥さんをもらうつもりはない。だから、君にはいずれお婿さんをもらって欲しいんだ。
君か、お婿さん。どちらかには、必ず皇国楽士団に在籍してほしい」
「………ぅぐっ!?」
あぶない!あぶないよ、お父様!……危うく、ようやく口に含んだ紅茶を吹くところだった。
「大丈夫?ごめんね、慌てさせて」
「いえ…確かに家の、大事なことですから…あの、もちろん相手は誰でも良いわけじゃありませんよね?」
「そうなんだよ。一応、うちの大事な跡取り姫の夫にして、私の義理の息子にしなきゃならないからねぇ……エルゥ、君、今好きな奴はいる?」
「いません」
エウルナリアは、ぶんぶんと横に首を振った。そこは、きっぱり答えるところだ。
「だよね。じゃあ、私が婚約者を決めていいかな?」
うーん…と、考えるエウルナリア。
難しい。将来の伴侶について話題を振られただけで紅茶を吹きそうになるほど、普段は考えもしなかったことだ。まともな答えが出せるとは思えなかった。しかし、今答えを委ねるのも何となく怖い。
(あと、必ずどちらかが皇国楽士団に入らなきゃいけない、だっけ。だとすると…かなり限定される気がするなぁ)
「あの…候補の方を何名かあげてもらえます?できればその方達と直接お話しして、お友達になった上で婚約したいと思います。
ほら、お相手になる方にも選ぶ権利はあるでしょ?」
「うーん…なかなか良くわかってるけど、いい感じに全くわかってない。さすがはエルゥ」
(…ごめんなさい、お父様。私にはその言葉の意味のほうが、全くわかりません…)
エウルナリアが不可解な思いに眉をひそめていると、アルムはどことなく楽しそうに言葉を継いだ。
「了解、私の小さな姫君。君のことを任せられそうな奴を何人か見繕っておくよ。そのうち、自然と知り合えるよう計らっておく。
そうだな…君が、学院を卒業するまで――いや、卒業する時に答えを聞かせてくれたらいい」
「…ずいぶん、長く時間をくれるんですね?」
「そりゃあ、大事なことだからね。できれば自分で見定めたいんだろう?
それに、君がそういう判断を出来るようになるには、それくらいの時間がかかると思う。いや、かかってほしい」
後半は何だか、切実な響きがあった。
そういうものなのかな、とエウルナリアは小首を傾げて腕を組む。うんうんと唸る姿も微笑ましく、周囲の大人はその様子を、ほんのりと温かく見守っていた。
「うぅ…よくわかりませんが、わかりました。お父様を信じます」
「うん。ありがとう、エルゥ。君の信頼と期待には、きっちり応えるよ。学院生活を楽しみにしてて。
…で、まずは必要な勉強だ。真面目にこなせば一、二年で終わるから。がんばってね」
にっこり、と綺麗な顔で笑う父に対し、エウルナリアの胸中は複雑だ。
「はぁ…がんばりますけど。たまには、一緒に歌ってくださいね」
ため息をつきながら精一杯のお願い事をするエウルナリア。
それを目の当たりにしたアルムは、今度こそ混じりけのない――困ったようにも見える、柔らかで温かな笑みを浮かべていた。