24 歌声の片鱗
朝焼けの赤金色の光を浴びて、白い帆を張った船は進む。細く長い船体の喫水線は、外洋船のそれと比べるとかなり浅い。模範的な河川用の帆船だ。
尖った舳先は澄んだ水を左右に分け入り、さざめく飛沫を煌めかせながらも、湖面を滑るように南下していく。
その甲板では、皇国楽士団の専属水夫達が忙しく立ち働いていた。
今はまだ北の白雪山脈から吹き下ろす風を受けて進んでいるが、大河に入れば流れのままに南下できる。逆に海からの向かい風もあるので、そろそろ帆を畳まねばならない。彼らの仕事は水の流れと時との勝負だ。
キュア、キュアと騒々しく周りを飛ぶ水鳥達の啼き声に、水の音。
水夫達の間で行われる作業と、大きく飛ばされる指示の声に、笑い声。
甲板は活気に満ちている。
そんな喧騒の中、まだ若い十代の水夫が四十代ほどの先達から注意を受けていた。この忙しい時に、手にロープを持ったままで惚けていたからだ。
「おい、手ぇ止まってんぞ!ぼけっとすんな!」
「あ…すみません!その…あんまり、衝撃的だったもんで…!」
若い水夫は、申し訳なさそうにしつつも何が、とは言わなかった。だが、それだけで「あぁ…」と軽く合点がいった先達の水夫は、彼が惚けていた理由について直ぐ様、当たりをつける。
――顔がにやついてしまうのは仕方がない。壮年の彼は、若者を揶揄うのはいつだって楽しいと自負している。
「…さっきのご令嬢な。可っ愛かったな~?確かお歳は十歳、エウルナリア様って仰るらしい。バード楽士伯の一人娘だ。俺も初めて見た」
あっけらかんと喋る年嵩の水夫は、なかなか現実に戻ってこない若者にしびれを切らしたのか、見かねてロープを束ねる作業を手伝い始める。
つられて、若い水夫も作業に復帰しながら会話に乗ってきた。こういう作業は、誰かと話しながらのほうが捗る。
「いやいや、先輩。可愛いどころじゃないっすよ。何です?あの浮世離れした妖精のお嬢さん…まじ可愛い!天使?幻?…あぁ、奇跡か!!
――とか、叫びたい気分でした。あ、俺、ほんとは年上好みなんすけど」
…若者は、残念ながら、あまり揶揄いがいのある好青年ではなかった。
壮年の水夫は、聞いてもいない彼の好みは聞き流し、生温い視線で笑んでおく。
「バード卿の秘蔵っ子だからなー。最愛の奥方の忘れ形見で、めちゃくちゃ出し惜しみしてるって評判だ。うん。確かに、あんな娘がいたら…そうなるな」
うんうん、と頷きながら、てきぱきと手を動かす年嵩の水夫には息子しかいない。故に、娘を持つ父親には昔から憧れと哀れみの感情を向けてしまう。それが、見目良い娘なら尚のこと。
「じゃあ、余計に不思議なんすけど…なんで今回はその、蔵から出しちゃったんすかね?まだ、楽士の仕事するには小さ過ぎるでしょうに…」
「そーだなぁ…まぁ、俺らにはよくわからん、やんごとない方々の事情とかあるんだろ。
バード家のご令嬢はな、他の楽士達から姫君って呼ばれてんだよ。父君があれだし、何より…」
そこで、言葉が途切れた。
喧騒の中に突然降ってくる音――天上の調べのような歌声が船尾から聞こえてきたからだ。
今度は二人とも、手を止めた。
二の腕に、ぶわっと鳥肌が立つ。
しばらく茫然と耳を傾けていたが…ほんの一節ほどで止んでしまった。
幼さは残るものの美しく、柔らかで透明なのに存在感のある――例えようのない声だった。
「……すげぇ、歌声の持ち主だって噂だったんだよ…」
かろうじて、先の台詞の続きを呟くものの、隣からの返事はない。それどころか自分の無骨な声が思ったより響いてしまった気がして、壮年の水夫は反射的に口を押さえて少し慌てる。
たった、あれだけの歌声で船上に静寂が満ちていたのだと、ようやく気付いた。
* * *
「やっぱり、歌うのって気持ちいい!」
船、丸ごと一艘を静寂に沈めた小さな歌姫は、朝食のあと船尾からの眺めを楽しんでいた。
楽しいという気持ちのままに、口から放たれた僅か一節の異国の歌。その余波だった。
「…アルム様が、お勉強が終わるまでは本気での歌唱を禁止なさるわけですね…エルゥ様」
後ろで控えるレインは、つい、周囲を忘れて愛称で主を呼んでしまう。何度か室内での軽い伴奏はしたが、まさかこれほどとは。
声量が、とか技量が、という話ではなかった。聴くものの心に直に届く、声そのものが備え持つ力だ。
――どきどきと脈打つ胸が、未だ高揚を収められずにいる。
(…アルム様は、エルゥ様の歌をセフュラで披露なさるつもりなんだろうか…?)
緑なすレガートの陸影が、湖面の向こうに小さく霞んでゆく。
帆船は、いつの間にか南へと下る大河に差し掛かっていた。




