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楽士伯の姫君は、歌わずにいられない  作者: 汐の音
十歳篇 南への旅

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23 いざ、セフュラへ!

 快晴の夏空。

 嵐が春の名残をすべて薙ぎ払って行ったかのように、季節はきっぱりと移り変わった。


 ――とはいえ、さほど暑くはない。エウルナリアは今、蒼く透明な水を湛えたレガート湖、その船上にある。

 時刻は、先ほど夜明けを迎えたばかり。

 黎明の光はまだ熱を帯びず、冷涼な風が向かう先からつよく吹きつける。少女の前髪はさっきから全開で、白く愛らしい額が丸見えだ。


「どう?エルゥ。楽しんでる?」


 船の舳先に陣取って、夜が明けてからは動こうとしない黒髪の少女の背中に、柔らかなテノールが響く。父のアルムだ。


「はい!それはもう…ものすごく!」


 答える声に喜びが溢れた。満面の笑顔はひどく無邪気で、乗船時の小さな淑女としての仮面は、既に振り落とされている。

 アルムは、左側から朝日を受ける娘のきらきらと輝く青い瞳に彩られた笑顔を、愛おしげに見つめた。


「レインも、側仕えご苦労だね。どう?大変じゃない?」


 アルムは続けてさりげなく、娘の傍らで静かに控える、栗色の髪の少年に声をかけた。

 ピクリと反応して、伏せられていた面があげられる。硬質だが優しげな光が宿る、綺麗な灰色の目が(あらわ)になった。


「とんでもありません。エウルナリア様は、従者としてお仕えし甲斐のある大事な方です。

 ――お側に居られることは、身に余る幸せだと思っています」


「へぇ…君、なかなか言うねぇ…」


「でしょ?レインはちょっと、従者として優等生過ぎるの。いつも助けてもらってるのは確かだけど」


 揺れる船上にありながら、ぴしっと礼をしつつ模範解答まで繰り出すレイン。

 アルムは出鼻を挫かれる形となったが、その口許は愉しげだ。

 エウルナリアは、父の複雑な心中など一切気にかけず「自慢の従者なの!」と言わんばかりである。


 そこへ、ちょっとばかり存在感のある足音が聞こえてきた。――邸では無音で歩く彼女だが、船の上だとそうはいかないらしい。


「はいはい、アルム様にお嬢様。今朝は早かったんですから、今のうちに体をお休めくださいませ。

 船室に朝食をご用意いたしました。レインは、給仕を手伝って。フィーネの指示を仰ぎなさい」


 賑やかに手をぱんぱん、と叩きながら近付いてきたのは、エウルナリアの乳母キリエだ。

 ふくよかな体躯は、見た目どおり抜群の安定性を誇る。小揺るぎもせずに立ち、面々に次の行程を指し示していった。


「はい、母上」


「わかったよ、キリエ。じゃ、ご一緒して下さいますか?姫君」


 それぞれが返事をする中で、アルムは貴公子の優雅さで手を娘に差し出し、エスコートを乞い願う。その優れた容姿は、ここが船上であることを一瞬忘れるほど絵になり、様になっていた。

 エウルナリアは、くすくすと鈴が鳴るような笑い声をあげて、それに応じる。勿論、父に恥じないくらいに優美な淑女の礼を以て。


「えぇ、構いませんわ。お父様」




   *   *   *




 レガートからセフュラに向けて出立した、皇国楽士団一行の帆船での第一幕。

 一日目の初めに繰り広げられたバード家のやり取りは、宮廷を見慣れた他の楽士達をもってしても目を奪われるほどのもので――船上にある者にとっては、水夫や護衛の騎士達も含めると、かなりの人々の見物となっていた。


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