22 遠ざかったもの、近づいたもの
窓の外を、大粒の雨が打つ。硝子の向こう側は嵐だ。緩急をつけて吹き荒れる風が雨水を翻弄し、ザアァーッ…という以外の音の全てを遮った。
「すごい雨…今日から休暇に入る人は、ちょっと気の毒ね」
あれから一週間。一般的な夏期休暇は、今日から一ヶ月の間、各自が交替で五日~一週間ほどの長期休暇をとるのが慣例となっている。
エウルナリアは、防音の処理を施された離れの三階、その窓際に佇んで外の景色を眺めていた。滝のような雨が視界を塞いで、庭の様子ですら見づらい。曇天の空には、ときどき雷光が閃いている。
いつも本格的な夏の前には嵐が来る。これが過ぎれば、からりとよく晴れた日が続くのだが――
ゴロゴロゴロ……
稲光のあと、低く響く雷の音に、黒髪の少女は首をすくめた。
「…意外です。エルゥ様、雷が苦手だったんですね」
コツ、コツという足音と一緒にレインが歩いてきた。手にはたくさんの本と、楽譜。灰色の目が意外そうに、軽く見開かれている。
エウルナリアはつい、彼をじとりと睨んだ。――首をすくませ、目が潤んだままなので、迫力は一切なかったが。
「苦手じゃないわ。嫌いなだけよ」
「同じだと思いますよ」
ふ、と苦笑してから窓際のテーブルに本と楽譜を丁寧に置いていくレイン。主が閲覧しやすいよう椅子の位置を整えると、「お茶の準備をしてきますね」と、柔らかい笑みを残して静かに図書室を出ていった。
(…この間から、レインが妙に大人っぽい気がする。
何だろ、この負けてる感じ!)
それは、親友といえるロゼルには感じたことがない感情だった。
レインが嫌いになったわけではない。寧ろ親しみは増えているのに、もやもやする。
――もやもやするのは、この感情が何なのかわからないから。
さんざん煩悶したあげく、些か強引に結論付けてしまったエウルナリアは、この妙な感情を一旦無視することにした。そう。時間がもったいない。
少女は、ひとつ溜め息をつくと椅子に座り、目の前の本を開く。
『翠海国セフュラ紀行』『大陸の伝統曲一覧』『南国の旋律集』…などなど。
――いよいよ三日後に控えた、セフュラ行きのための予習だ。
* * *
エウルナリアは、海を見たことがない。
今よりもずっと幼い頃、一度だけダーニクやキリエに連れられて、フィーネと一緒に湖の浅瀬まで遊びに行ったことがある。それだけだ。
(なぜか、レインは不在だったけど)
その時に、幾つもの舟を見た。
小さなボートは近くを。遠くには、帆をつけた細長い船を見た記憶がある。
エウルナリアは、ぺらりと『翠海国セフュラ紀行』の頁をめくった。
三十年くらい前のレガート人の、旅を好んだという貴族の著書のひとつだ。
“――セフュラは、大陸の南側を占める大国である。国土は、南方諸島も含めればレガートのおよそ二十倍。レガート湖から流れる大河を下れば、王都のキウォンまでは船で一日で着く。外洋からの大型船が唯一停泊できる港を備えおり――”
「……?」
エウルナリアは紀行を読み進むうちに、いつの間にか本来の目的とは違う感想を抱き始めていることに気づいた。
今までなぜ思い付きもしなかったのか――この国の、小ささを。
頭の中に大陸の地図を浮かべる。…セフュラより広い面積の国もある。そして、こんなに良い立地にあって小さすぎるレガート。どこか、おかしい。確かに、いつ滅んでもおかしくはなかった。
人口も国土も少なく、あるのは芸術と音楽の高い水準と、それらを育む徹底した都市環境だけ。
(…芸術と、音楽だけ?)
そのとき。
カッ――と、一段と強い光が閃いた。
「!」
刹那のあと、届くだろう地響きに備えてきゅっと目を閉じ、両耳を塞いで身を縮込ませたエウルナリアだったが――ふわり、と柔らかいものが頭の上から被せられた。
うっすらと開いた目に映ったのは、水色。エウルナリアお気に入りのショールの色だ。
(…?え?あれ?)
驚くエウルナリアを無視して、小さな手の甲に重ねるように一回り大きく、皮膚のかたい手のひらが、布越しに少女の耳をやさしく覆う。温かい手のひらの向こう側で、「――ォォン…」という音が聞こえた。
ビリビリ…と窓と床が鳴って振動を伝えたが、エウルナリア自身は驚きのほうが怖さを勝り、軽い混乱状態に陥っている。
もちろん、相手が誰かはわかっている。
そのことが、混乱とは関係のない不思議な安堵を少女に与えてくれていた。
そっと、手の温もりが離れて行く。
気遣うような少年の声が、頭の上から聞こえた。
「失礼しました、エルゥ様…大丈夫でしたか?」
「う、うん。大丈夫。あの、これ…?」
エウルナリアは、黒髪の上から被せられた水色のショールに手をかけ、顔を上げた。
椅子に座ったまま後ろを振り向くように見上げると、思ったより近くにレインの綺麗な顔があった。…本当に近い。
「――!」
至近距離で視線が合った瞬間、従者の少年はパッと飛び退くように主から距離をとった。
――さっきまで彼女を守っていた両手は、行き場をなくしたように同じ形のままだったが。
「…わざわざ、取ってきてくれたの?ありがとう」
「い、いえ…お役に立てたなら良かったです…!」
さっきまでの落ち着きはどこへ行ったのか。
頬を染めて視線を逸らすレインは、ある意味いつも通りだった。
エウルナリアは、ふと、胸を占めていたもやもやが消えていることに気づいた。
(?何だったんだろ?まぁ…いいか)
――なら、私も元に戻るだけ。
「…レイン、よかったら一緒にお茶を飲みながら、セフュラの歌を探してくれる?あとで、二階で弾いてほしいの」
主の相変わらずの揺るがなさに、レインは一瞬だけ残念そうな顔をしたが…一度目を閉じて軽く息を吐くと、やんわりと苦笑した。
「わかりました、エルゥ様。
じゃあ、まずはお茶を淹れましょう。姉上ほどじゃありませんが、けっこう上手くなったんですよ?」
手の指し示す先には、入り口近くのソファーセット。いつの間にか紅茶一式が用意されている。
「すごい!楽しみにしてるね」
水色のショールを肩から羽織ったまま、エウルナリアは楽譜を選んで手に取ると、ふわりと椅子から降りた。
雷鳴は遠のき、窓の外の雨足は弱くなっている。うっすらと空も明るくなって来た。
夏は、近い。




