1 この父にしてこの娘あり※
カツン、カツンと靴音も高く、エウルナリアは廊下を闊歩する。令嬢として褒められた作法ではないが、今はおしとやかに振る舞う気分でもない。
講義を終えたユーリズ女史を、淑女然とエントランスまで見送ったあとのこと。黒髪の少女は二階の自室には戻らず、そのまま一直線に一階最奥にある父の書斎へと向かっている。
たまたま居合わせたメイド達は、目を丸くしてすれ違うばかり。諌める者は誰もいない。
彼女を止められる者がいるとすれば――
最後にカツン!と、いっそう高い靴音で目当ての扉まで辿り着いたエウルナリアは、勢いのままにそれをバタン!と押し開いた。
「お父様!どういうことですか!」
「やあエルゥ。ノックはちゃんとしようね」
――間髪入れず。まるで「来るのはわかっていたよ」と言わんばかりに穏やかな声が響く。
扉を背に向かって正面、書斎の奧は壁一面の硝子窓。紺色の天鵞絨のカーテンは両脇できちんとタッセルに結わえられており、思いがけない明るさに、少女は少し目を細めた。
その光源を背に、重厚な黒っぽい執務机で手にした書類から目もあげず、見目良い黒髪の男性が椅子に座っている。
レガート皇国、バード楽士伯家当主アルム―――現在、エウルナリアを止められる唯一の人物である。
* * *
「……どうしたの?午後は、書類を見なきゃいけないと伝えてあったはずだけど」
アルムは手元の紙を捲りながら、やんわりと娘に声をかけた。
さほど大きい声でもなかったが、少し低めで柔らかく、芯の通ったテノールは響きが心地良い。沁み入るように耳に届く。
(相変わらず、いい声だなぁ…)
エウルナリアは、咎められていることも忘れて最初の不機嫌をちょっぴり直してしまった。残念な声フェチだ。
「それは申し訳ありませんでした。でも、来客の予定はなかったでしょ?確認済みです。
…それより、ユーリズ先生から聞きました。どういうことですか?」
「どういうこと、とは?」
(…質問に、質問で返すなぁぁ!)
エウルナリアの中で、収まりつつあった苛立ちが瞬く間に復活した。残念な点にもう一つ、沸点の低さを加えねばならない。
飄々として掴み所のないアルムは、実年齢より若く見える。それでもまだ三十四歳だ。
エウルナリアを産んですぐに亡くなった母をまだ愛していると公言し、後添いもいない。
少し甘めの整った顔立ちに、すっきりとした立ち姿でまぁまぁの長身。おまけにいい声。ご婦人がたの人気は高いが、本人はいつもこの調子だった。
多分、余所よりも仲の良い親子なのだろう。
いささか自由に育てられた弊害かも知れないが、彼女は家の中では何の気負いもなく、思ったままに父親と接する。
もちろん尊敬や愛情はあるが、来客中でもない限りは、仕事中だとか迷惑だとか、そんな気兼ねは一切なかった。
エウルナリアは、つかつかと歩を進め、執務机を挟んで父親と対峙する。
目の前まで近づくと、重厚な机はより一層大きく感じられる。それは、小柄な彼女にとって厄介な障害物のようにも思えた。
――大きくて、邪魔だ。
少女は、すぅ、と息を吸い込むと顎を引き、キッと父を見据えた。
「私ももう十歳になったから、そろそろ学院入学に向けた勉強を始めようかとお父様が仰ったのは理解しています」
「うん」
「ですが、今まではお勉強中でも歌いたくなったら、一節くらいは歌わせてもらえました!」
「それはそうだよ。君はまだ小さかったし、今まではうちの使用人達が先生だった。みんな、君に甘いからね」
「う……」
(おかしい。風向きが変わってきた)
今まで当たり前だったことの甘さを指摘され、反射的にエウルナリアは狼狽した。
気配を察したアルムは、ここでようやく視線を書類から離し、気まずそうな表情の娘へと向ける。濃い緑色の眼差しは、温かい。
「君が希望する学院の名前と専攻学科、科目を言える?他にも、知ってることは何でも」
「…?レガティア芸術学院、音楽科、声楽部門を希望です。必修科目は専攻科目、一般教養、礼儀作法など。専攻楽器は確か、第二まで選べます。クラスは基本的に同じ年齢の……あ!」
「そう。気付いた?クラスメートができるんだよ。一年生はみんな十四歳。卒業は四年生で、十八歳。才能があれば、貴族平民は関係ない。
…わかるね?好きなことを好きなだけ学べる環境が楽しみなのはわかるけど。できれば講義のルールは守って、友達と仲良く過ごせるようになって欲しいな」
「…ですよね」
父の言うとおり、舞い上がっていた。たくさんいるだろう、同じ道を志すクラスメートと共に色んな講義を受けつつ、技能を伸ばすのだとすっかり失念していた。
ユーリズ先生も、さぞかし面食らったろうか…と思い至ると、エウルナリアの頬が羞恥で赤らむ。
潤んだ目を伏せ、両手で頬を押さえていると、ぽん、と大きな掌が頭の上に乗せられた。そのまま優しく撫でられる。
いつの間に椅子から立ち上がったのか、アルムはエウルナリアの隣に回り込んで膝をつき、その顔を覗き込んでいた。
「…実は、そろそろ休憩しようと思ってたんだ。一緒にテラスでお茶でもどう?」
優しく微笑むと、返事も待たずに片腕で抱き上げて歩き出す。
泣きそうになっていたエウルナリアは、父の甘さについ、笑顔になっていた。
(私に一番甘いのって、お父様だと思う…)
なんだか、心がこそばゆい。
――でも嬉しい。
敵わないな、とも思いつつ、今日は抱っこされたままでいてあげようと、父の歩調に抗わず体重を委ねることにした。
(※アルム34歳、イメージ画)