14 愛称のほうが、自然にきこえる
小雨降りしきる中、レインのピアノが優しい音を奏でる。
エウルナリアは、椅子に座らずに立ったまま、《屋根》と呼ばれる反響部分の蓋を閉じたグランドピアノに凭れかかり、さらに頭を乗せ、頬をくっつけて聴いていた。
――つまり、枕のように。
かなり行儀わるいが、こうしているとピアノの中で鍵盤に連動して動くハンマーや、打ち鳴らされた弦の振動がそのまま伝わってきて楽しい。…ただし静かな曲調に限る。
長い睫毛で伏せられた瞳は、なかなか開かない。眠っているようにも見えたが、起きていることは、時々リズムに合わせてトン、トンと軽く指が拍子を取っていることから窺えた。
――まるで、寝ている猫が尻尾だけ、気まぐれに上下させているように。
手元から顔を上げないまま、奏でるメロディーを途切れさせることなく、レインはそっと主に問いかけた。
「…エウルナリア様、何かありましたか?」
「ん…?うん。そうだねぇ。あったというか……
最近、お父様がお疲れみたいでね…」
ぱち、と開いた夢みるような青い瞳が、ぼんやりと栗色の髪の少年に向けられる。見てはいるが、見ていない。考え事をしているとき特有の目だった。
「たぶん、私のせいなの」
「エルゥ様の?…て、あっ!す、すみません。つい…!」
急に、派手にミスタッチをしたかと思うと不協和音が鳴り、レインの演奏が止まった。間違えて主を愛称で呼んでしまったことに驚いているようだ。十歳の子どもにしては、長く節の目立つ指の手が、彼自身の口を塞いでいる。
(いやいや、塞いでももう、出ちゃってるから)
エウルナリアは、従者の少年が口にした自分の愛称があまりにも違和感がなかったので、謝られてから気がついた。
むしろ、演奏を急に止められたことのほうが気になった。
――振動がない。鳴らないピアノはつまらない。
「いいよ。二人でいるときは、エルゥで。呼びにくいでしょ?私の名前、長いもの」
「ですが」
「今さらだよ。私も、あんまり人前以外でお淑やかにするの、本当は苦手だもの。レインは、従者だからずっと一緒にいてくれるでしょ?お互いに無理のないほうが、いいよ」
「……」
(え、返事がない)
「!…あ……ごめんね。ひょっとして嫌だった?本当は、私の従者、つらい?」
だとしたら、かなりショックだ。
思わず青ざめたエウルナリアは、ばっと顔を上げると真摯な面差しになり、少年に問いかける。
レインは、途端に真っ赤な顔をぶんぶん、と左右に勢いよく振って、激しく否定した。
「ま、まさか…!あり得ません。僕は、エウルナリア様の従者になれて、すごく嬉しいんです!嫌がってなんかいませんっ!本当に!」
必死だ。こんなに必死なレインは初めて見た。――初めて会ったのも、ついこの間だが。
「…エルゥ」
「…はい?」
「エルゥ。一度呼べたんだもの。呼べるでしょ?」
「!~っ…」
「ね。はやく呼んで。それから、さっきの曲、もう一回弾いて?まだ聴きたい」
こうなった主は決して折れないと、既に感覚でわかっていた従者の少年は、しばらく煩悶する――が、やがて眉尻を下げて困ったような笑顔になり、観念した。
「…わかりました、エルゥ様。…ただし、二人でいる時だけです」
再び、ピアノが鳴りはじめる。少し音が震えているのは見逃してあげよう。
エウルナリアは嬉しそうに微笑み、もう一度ピアノに頬をつけると、幸せそうに目を瞑った。




