コーヒーしばいていかへん?
茶をしばく、コーヒーしばく・・・大阪の人は本当にそう言うんやで。
結果から言うと、昼休みの時間が終わるまでカナエからの返信はなかった。
『件名:緊急速報 本文:浜中部長暴走』
この短いメールで、こっちの意図を読み取れたらそれはそれで驚愕だが、天真爛漫に見えるカナエは意外と頭がキレる。同期でずっと横で見てきた僕だからわかることだ。何より。彼女に惚れている。一番社内で彼女のことをわかっているつもりだ。
カナエが僕の彼女と思われた点に関しては、カナエがどう思うかはわからないが、中学生の初恋のように心を躍らせる自分に気が付いたのは一件目の来客の際にお客さんから「ニヤついとるで?彼女できたん?」とからかわれてからだった。
午後からの来客対応を無事に終えた僕は、日報を少しでもまとめてから会議に行こうと、再びデスクに向かっていた。
「あ、いたいた!」
ワードの日報フォーマットを起ち上げたところで、カナエが声をかけてきた。
「あ、カナエメール見た?」
僕は平静を装いカナエに尋ねる。
「見た!そして浜中部長につかまった!」
相変わらず元気だ・・・だが、色々部長の尋問(?)の中で察したところもあるのだろう。彼女の目は真剣そのものだった。
「どうすっかなー。ただでさえ今忙しいんやけど・・・」
そうだ、カナエもこの後の会議には参加する。カナエだって暇ではないはずだ。
「やばいのは営業部全体の会議だってことだよ中橋君。浜中部長はもちろんメインで出てくるし、谷村課長も参加する。浜中部長はおそらく会議では何も言わないだろうけど・・・」
浜中部長はそのあたりのTPOはわきまえている。会議の中でオフィスラブ未遂を凶弾するような人ではない。谷村課長については、正直僕は接点がほとんどないためわからないというのが本音だ。
「今朝の私の浅はかな行動、かなり噂になってもうてるんよ・・・中橋君ずっと応接室おったからわからんかったやろうけど、もうこっちは針のむしろやで・・・」
しまったという顔でカナエは手に持ったノートを自分の額に押し付ける。言うほど余裕がないわけではないようだ。
「とりあえず、会議終わってから作戦会議しようか?時間取れる?」
僕の提案を聞き、カナエは手帳を開く。パラパラとページを捲り、今週のバーチカルのページで手を止めた。
「あー、あかん。今日彼氏の誕生日や、忘れとった!」
「え!彼氏おるん!?」
時が止まった。あわてて僕は自分の声の大きさを再認識し、周囲を見渡す。幸い人はいなかった。
「じょーだんやって。会議終わってからやから・・・8時に『ロゼヲモンド』でいい?まだ水曜日やからお酒はやめとこ?」
カナエはにやりと小悪魔的な笑顔を僕に向け、駅前の喫茶店の名前を挙げた。決定的だ。その笑顔は、小悪魔的と形容したが僕の心をえぐるサタンのように強く、これだけで白飯が食べられるくらい美しいものだった。
「あ、じゃあ私先会議室行ってるね?一緒に行くともう会議やなくて軍法会議になってまうし。」
カナエはそういってパソコンとノートを抱え走って行った。
夜8時、地下鉄御堂筋線のとある駅のそばにある喫茶店、『ロゼヲモンド』。ビジネス街ということもあり、夜10時まであいており、この時間でもまばらではあるがサラリーマンがパソコンで仕事をしていたり、会社帰りと思われるOL二人組が談笑していたりとビジネスパーソンに重宝されているようだ。
僕は店の入り口から少し奥まったところにあるテーブル席に座って、出された水を飲みながらカナエを待っている。
『いらっしゃいませ』
カランコロンと鳴子が音を立て、カナエが店内に入ってきた。マスターはコーヒーカップを磨きながら、丁寧な口調で『お好きな席へ』とカナエに声をかける。カナエは店内をぐるっと見渡し、僕の姿を見つけると、「やぁ!」と手を挙げこちらへやって来た。
「お待たせー。ごめんね、メール処理追いつかなくて」
カナエはそういってメニューに目を落とす。
「中橋君、注文取った?」
「いや、まだ。とりあえずアイスコーヒーでええよ。」
気を利かせたつもりはないが、カナエが来るまでまだ注文はしていなかった。
「で、さっそくなんだけどね・・・」
カナエは「冷コー2つ」とマスターに告げると、声のトーンを落として話を始めた。
「かなり噂になってもうたわ。ごめん・・・」
神妙な顔つきとトーンで僕にそう告げる。どうやら、僕がオフィス内で仕事をする時間が短かったため、直接耳にはしていないだけで、社内では僕とカナエが付き合っているのが既成事実となりつつあるようだった。
「1課の中村っているでしょ?1つ年下の。」
中村・・・ひょうきんな奴だが、部長と違って口が軽い。よく言えばムードメーカーだが悪く言えば単なるお調子者の奴だ。
「ああ、あいつがなんか言ってるん?」
「今朝の私たちのやり取りを遠目で見ていたらしいんやけど、色んな人に『中橋さんと中橋さん、付き合ってるんですか?結婚したら苗字変わんないから楽でええですねー』的なことを言いまわっているらしいんよ。」
カナエは几帳面に聞き取りを行ったと思われるメモをシャツの胸ポケットから取り出し、僕に報告する。
「また、それを聞いて回った相手が悪かったみたい。」
カナエが話を続けようとしたところでコーヒーが運ばれてきた。
僕は伝票をサッと自分の方に手繰り寄せる。カナエはコーヒーにフレッシュと液体シュガーを入れるのに夢中になっていた。
「『同じ苗字でややこしいからって、男の方の中橋さんはもう一人を『カナエ』って呼んでるし怪しいっすよー』なんてのも言っているらしいんよ・・・少なくとも、今日の午前中、厳密には中橋君が外回りに出た瞬間に浜中部長に聞きに行ったらしいし。」
「それなら昼休みに僕ん所に部長が来たんもわかるわ。」
僕はコーヒーに口をつける。アイスコーヒーのきりっとした苦みが、会議以外の要因でも疲れ切った僕の脳みそに刺激を与えてくれた。
「カナエ、どうするん?」
僕の言葉でカナエは机の上のメモ帳から顔を上げる。その顔は多少疲れてはいるものの、思ったほど深刻には悩んでいない様子だった。
「どうするんって、中橋君困ってることある?」
逆に質問が飛んできた。それも思ってもいない返しでの。
「いや、困ってはないんよ。勘違いされてても仕事に支障はないんやけど周りの目が気になることも出てくるんかなーって。」
カナエはあっそ、と言って再びメモに目を落とした。
「とりあえず、明日中村を朝一でシめるわ。中橋君に実害は出えへんようにするさかい、堪忍してな。」
「実害って・・・」
思わず苦笑する僕にカナエもつられて笑みを浮かべる。
「そういえば、話変わるんやけどさ、これのせいで忘れてたけど、昨日心斎橋で谷村課長にナンパされた言うてたやん?」
付き合っているという噂の出所と取り急ぎの対処方法が出たところで、僕は話を変える。
「あー、課長な・・・ナンパやって言い方は語弊があるかもわからんねんけど、心斎橋のあそこ、長堀通りの交差点のところで声かけられてな・・・」
僕はグラスに刺さったストローをくわえながら、カナエの目を見つめる。どこか不安そうな光を映した彼女の目には、間抜けな顔をした僕が映っていた。
「ナンパ・・・半分告白やであれ。偶然会って、奇遇ですねなんて言ってたんや。そしたらいきなり『前から中橋さんの事かわいいって思ってました。もし良かったら、この後飲みに行きませんか?』って。」
「それ、完全に告白やん。半分ちゃうで・・・」
僕はあきれた。そもそも、谷村課長は既婚者だろう。何を思ってそんなことを5歳以上年下の女性に言っているのだろうか。まず、カナエは谷村課長が妻帯者であることをしっているのだろうか?
さまざまな疑問が頭の中に渦巻く。そんな僕をよそに、カナエは話を続ける。
「いや、用事あるんで無理ですーって言って逃げてん。そん時は今日が怖かったけど、今日は今日で何もアクション無や。それもそれでまた怖いやろ?」
男としてどう思う?と尋ねるカナエに僕は切り出した。
「あー、カナエが知っているかどうかはわからんけど、俺の知る限りやと、あの人既婚者や。前に浜中部長が仲人したみたいなこと言ってはずやねん。」
「え、それホンマ?」
目を見開いて驚くカナエ。まぁ無理もないだろう。ナンパ(ほとんど告白だが)をしてきた人物が、直属の上司で、それがしかも既婚者だったとなったらこれはもう個人的な話では済まなくなる。昨今、僕の勤める会社も大企業ではないが、コンプライアンスにはうるさくなってきた。世の流れとしては当然であるが、これは課や部だけの問題では済まされなくなるだろう。下手をすれば、総務や法務部の出番も出てくる話になる。
「えー・・・指輪付けてへんだし、谷村課長何考えてるかわからへんけど、仕事はようできはるからなー・・・えー・・・」
えーという感嘆詞を繰り返しながら、カナエはストローでコーヒーを混ぜ続ける。
「自分の事語りはらへんから、結婚してはるのはしらんかったわー。けど、これ巻き込まれたら私どうなるんやろ・・・」
「そういえばさ・・・」
僕は意を決してカナエに尋ねる。カナエはそもそも谷村課長に恋愛感情を抱いているのだろうか?既婚者と知った今は、面倒なことに巻き込まれるのを避けたいのは明らかな態度だがそれを抜きにして、だ。今は関係ないかもしれないが、僕は聞かずにはいられなかった。
「そういえば?」
カナエが繰り返す。
「カナエは、今村課長にそういう・・・恋愛感情的なの持ってたん?」
少し驚いた顔をして沈黙・・・すぐに否定をしないということは、カナエは何かしらの恋愛感情を持っているのだろうか?
「んー・・・」
うなったのちにストローでコーヒーを吸い上げる。
「恋愛感情・・・ではないんよなぁ。仕事できて、年上で頼りになるけど・・・お兄ちゃんというか、近所の年上のお兄さんというか・・・まぁそんな感じやねー。」
顔に出さないように安堵する僕。いや、僕は何を心配しているのだろうか・・・
「そっか、ならよかった。」
不思議そうな顔をするカナエ。
「不倫に鳴るのはよくないからね。」
あわてて付け足す僕。週刊誌を騒がせるようなものではないが、業界内でしゃない不倫の噂は時折聞こえてくるのだ。
「そういえば、その話は誰かにした?」
「さすがにしてへんよ。中橋君はいろいろ相談できる間柄だから言ったんやけどね。」
カナエはすぐに否定した。
「ただ・・・」
「ただ?」
カナエは言葉を続ける。
「浜中部長は何か知っているかも。今日の事で私、部長に『つきあってるんやろー』って茶化されたときに、あたふたしてたら、『中橋君も否定しとるゆうことは、ホンマに付き合ってないんか?』言いはって、『まあええわ、そういえば谷村見た?あいつ今朝からおかしいんや』って。」
「なんかおかしかったん?谷村課長。」
「まったくわからへん。私今日そんなに話す機会もなかったし、昨日の今日やから、私も谷村課長の前ではおかしいかもわからん。」
謎が深まるとともに、コーヒーの残りは少なくなっていた。
「そっか・・・わかったわ。とりあえず、今日はこれくらいにしとこか?」
腕時計は午後9時を指していた。機械式のため若干の遅れが出ているかも知れないが、夜も更けてきたことは確かだった。
「そうやね・・・あかん、今日一日いろいろありすぎて疲れたー!!」
カナエはいつもの笑顔に戻り、椅子に座ったまま思いっきり背伸びをする。彼女のシャツの裾が、パンツスーツから出ていて肌が見えそうになるのを、僕は必死で目を逸らした。
『ロゼヲモンド』を出て、解散。「送って行こうか?」という僕の提案は、カナエの「アカン、下手すると残業していた人と鉢合わせしたらよけいめんどくさい」という回答でないものとされた。
「じゃあ、気を付けてな。」
「うん、中橋君も気を付けるんやでー。」
カナエは手を千切れんばかりに振りながら、僕のもとから去って行った。
(あ、なんかカップルっぽいな)なんて思い、しばしの幸せを噛みしめる僕には、翌日起る事件については予想もできなかった。