90.二十一世紀への挑戦 中
帝王切開に限らず、外科手術を行う上で重要なものはたくさんある。執刀者の正確な知識や経験などもそうだし、現場の清潔さなどもそうだ。
だが個人的に、それよりも重要なものが麻酔だと思う。
何せ痛覚が正常に機能している状況では、身体に刃を入れるなど絶対に耐えられない。それが場合によっては何時間も続くとなれば、なおさらだ。
あくまで素人の個人的な意見なので、異論はいくらでもあると思う。麻酔もノーリスクというわけでもないし、外科手術ともなれば麻酔専門の人間がいなければならないなど、コストも相応だったはずだし。
だから他はともあれ、あくまで俺個人は麻酔が特に重要だと思っているというだけだ。
しかし当たり前だが、この原始時代に麻酔などという文明の利器はない。一応麻があるので影くらいは形があるが、医療用として使えるだけの水準にあるはずもなく。
だからどうあがいても、麻酔なしの手術を敢行するしかないわけだが……今このときこの場所という状況に限っては、麻酔は無視することができる。
理由は俺の魔術。発動している限りは、対象の痛覚を遮断し続けるというこの魔術を使えば、執刀時の痛みは考慮する必要がない。
この魔術のとんでもないところは、痛覚をほぼ完全に麻痺させられることもそうだが、何より副作用がないことが一番だろう。
自覚してから今日に至るまで、色んな場面色んな存在にこれを使ってきたが、今のところ不調に陥ったものはいないのだ。俺のように、超健康体質の持ち主でなくてもそうなのだから、この点については信じていいだろう。
また麻酔の他にも、俺という存在によって無視できる要素がいくつかある。
まず、傷の縫合。これは無視できる。
通常であれば、傷口の縫合もかなりの技術を必要とする上に、傷跡もほぼ必ず残る。しかし万能薬である俺の血があれば、縫合する必要そのものがなくなる。それはここ十年間の研究によって証明されている。
さすがに開腹した人間に使ったことはないが、ウサギでならやったことがある。傷一つ残らず完治したので、人間であっても同様の効果は得られるはずだ。
ゆえに、縫合に用いる道具もいらない。時間がなく、技術もない現状でこれは大きい。
同様の理由で、感染症などを気にする必要もない。
怪我のみならず病気をも完治させる俺の血は、そうしたものを見逃さないのだ。でなければ、俺の血を半ば常飲している長老が、ああも長生きできるはずがない。
血を与える間もなく即死するような、極めて即効性の高い毒でも飲んだら話は別だろうが……そんな瞬間的に人を殺す感染症など聞いたことがない。必ず血を投与する時間はあるはずだから、絶対に清潔を徹底する必要性はない。
もちろん、きれいであることに越したことはないが。俺の血も有限だし、使う機会は少ないほうがいいことには違いない。
ただ原始時代で滅菌など到底できないのは、誰にでもわかる通りだ。なので、その手のことは血の力に任せてゴリ押すしかない。深く考えてもどうしようもないから開き直る、とも言うが。便利なのだから、使わない手はない。
一方で、俺ではどうにもならないこともある。
一つは、俺の血をメメがどれだけ受けつけられるかだ。
これは端的に言うと、あなたは何リットルの血を飲めますかという話である。
血だぞ。血の味って、結構えぐいのだ。それを治療のためとはいえ、状況次第で量は変わるとはいえ、何回も飲まされるというのはかなりきついと思う。
最初にその効果を実感したとき(第五十八話参照)に感じたことだが、その後の研究でも俺の血は経口摂取が一番効果が高いことがはっきりしている。だから何かあれば飲ませることになるのだが……場合によっては吐くのではないか。
血の問題はもう一つあって、メメの体調のために手術中に血を飲ませた場合、恐らく手術で切り開いた場所も普通に治ると思われる。
治るのはいいことだが、手術中にそれが起きるのはさすがに問題だ。下手したら某医療漫画のように、体内にメスが残ったりしかねない。
この二つの問題を解決するためには、できる限りメメに血を飲ませないようにするしかない。しかないのだが……。
俺の経験および知識不足、という問題がここに立ちはだかる。
いくら帝王切開について生前かなり調べたとは言っても、所詮は一般人が知り得る範囲のことしか知らない。それを専門として学んだ医者には比べるべくもないし、何より人体の構造については正直よくわからない。サピエンスですらわからないのだから、アルブスのそれがわかろうはずもなく。
このため、たぶんかなりメメの身体を切ることになると思う。たぶんというか、間違いない。
そうなれば、メメに血を飲ませる機会も増えると予想されるわけで……さて、どうしたものか。
アルブスの人体構造について知ることができればいいのだろうが、はっきり言ってそれは今からは無理だ。そんな都合のいい死体が、都合よく出てくるわけがない。
だからこの件については、はっきり言ってぶっつけ本番になるだろう。最大の懸念事項である。メメの命がかかっていなかったら、絶対にやらない。
問題はもう一つある。出血だ。
いくら俺が痛覚を完全に抑えられるのだとしても、出血まで抑えられるわけではない。身体を切ったらそりゃあガンガン出血する。
そして血がなくなったら、生物は死ぬ。当たり前すぎることだが、それがこの世の摂理だ。
確かサピエンスの場合、全血液のおよそ三分の一が失われると死ぬのだったか。別の種族ではあるが、生態が近いアルブスの場合も似たようなものだろう。これをいかに抑えるかが、成否のカギを握っていると言っても過言ではないと思う。何せ輸血など絶対にできない状況だからな。
一応、あらゆる不調を治す俺の血には、相応の造血作用があることはわかっている。普通の薬などよりも、よっぽど効果が高いだろうことも。
ただ、俺の血は投与して即座に効果を発揮するわけではない。最低でも一時間くらいの時間がかかる。ちょっとした切り傷程度なら問題ないが、帝王切開のような規模の手術では造血目的で使うには遅いのだ。
しかし、この件については腹案がある。だから俺は、チハルに協力を求めた。
「んう……も、もう無理ー!」
チハルの声とともに、ぶしっとウサギの体内から血が吹き出た。失敗である。
当のウサギは、痛覚を止められているので不思議そうにきょろきょろしているだけだけども。傍目にはだいぶ不穏である。
とりあえず俺の血を与えて治しておくとして……。
「開けた箇所や血管の太いところはできているわけだから、理論的には間違っていないはずなんだが……」
やはり難しいのだろうか。毛細血管に至るまでのすべての血管を、切り裂くと同時にバリアの魔術で覆うというのは。
「なんていうか、すっごく……神経使う? って感じ! そんな長く集中してられないし……疲れるんだよね……」
「そうだな……確かに、最初のうちのほうが成功範囲が広かったな」
チハルの言い分に頷きながら、状況を整理しようと思う。
俺の考えた腹案とは、ずばりバリアの魔術(第八十話参照)の適用範囲を傷口に限定して使い、蓋にすることで出血を抑え込むというものだ。
バリアの魔術は物理的な障壁を構築するものではない。斥力のようなもので物質を押し返すものなので、狭い場所に対しても張ることができると見た。つまり血管や臓器を不必要に圧迫しなくて済むため、出血抑止に有効だろうと考えたわけだ。
そしてこれは無事成功した。単に傷口を覆うだけならさほど難しくなかったようで、チハルは初日のうちに数回の挑戦で成功させてくれた。
なので今は一歩踏み込んで、身体を切り裂くと同時にバリアによる保護ができないか挑戦中である。もしこれができるのであれば、一切出血させることなく進められるかもしれないと思ったのだ。
考え方としては、切ると同時に患部を焼き、出血を抑え込むレーザーメスなどに近い。ただし焼くわけではないので、成功するのであれば身体への負担などはもっと少なく済むだろうとも見ていたのだが……。
「そううまくいくはずがないか」
成功率は、一番いいときで一割くらいである。これでは、やらないよりはマシという程度でしかない。
先ほど俺が言った通り、開けている箇所や太い血管など、目で見てある程度状況が把握できる部分ではできている。切ると同時に患部にかすかだが青い光がまとわりつき、それが消えたあとは出血することなく血管が動いている様子が見えた。
つまり、理論は間違っていないはずだ。あとはシンプルに腕を磨けば行けると思うのだが……。
「父さんごめん、ちょっと休憩させてー。目がチカチカするよー」
元々相応に集中力を要するバリアだが、他人の動作に合わせて、しかも複数同時展開はかなりの負担がかかるようで、チハルに練習させるにもあまり長時間はさせられない。
準備を始めてから三日経ったが、技術の向上は確かにあって、しかも劇的ではあるが、手術で使える域には達していないのが現状だ。
この集中力という点で言うと、多くの魔術を使えるソラルのほうが上なのだが……どうもバリアは念動力関係の魔術のようで、ソラルよりチハルのほうが得意なのだ。
だからこそ、このポジションはチハルに任せることにした。そもそもこの魔術に成功しなかったら、継続時間もくそもないからな。
一応念のために、ソラルにもある程度できるように練習させてはいるけども。彼女のほうは、手術本番は別のことを頼むつもりでいる。
こうした部分は俺にはできないので、もどかしく感じることはある。しかしチハルも必死で取り組んでくれているし、ちゃんと成果も上がってきている。メメの容態も今の所安定しているので、もう少しだけ時間をかけてみようと思う。
まあできなくとも、傷口をバリアで覆うこと自体は最初にできている。その場合出血は避けられないが、それでも何もなしでやるよりははるかに出血を抑えられるはず。今はあまり悪い方向に考えすぎないようにしたい。
「わかった。無理はしないようにな」
「うん……でも、メメ母さんのためだもん。がんばるよ」
「ありがとうな」
優しい子に育ってくれて、俺は嬉しいよ。
「あーっ、でもなんでもうちょっと長続きしないかなー。ボクも父さんみたいにずっと魔術使えればいいのに……」
そのチハルが、駄々をこねるような口調で言いながら、ぐてんと仰向けに寝転がった。
ちなみにここは病棟のすぐ外で、彼女が寝転んだのはそのまま地面である。色々とやるにあたって病棟の中はさすがに狭かったので、痛覚遮断の射程範囲ぎりぎりのところでこうしてやっている。
メメの世話は、通りがかったダイチにチハルのお願いで任せた。思春期の少年は素直ではないけれど素直なところが微笑ましかったが、それはともかく。
「最初の頃よりは長くできてるじゃないか」
「それはそうなんだけど……もっとできたほうが絶対いいはずでしょ?」
「それはまあ、そうだが……」
ごろんごろんと意味もなくその場で転がるチハルを見ながら、苦笑する。
そう、なぜか俺は魔術を使い続けることができる。ルィルバンプに戻ってきてからというもの、今に至るまでひたすらメメに痛覚遮断を使い続けている。
恐らく、痛覚遮断が一度かかるとしばらく効果を発揮し続ける状態変化系な挙動をする分、常に俺に負担をかけるものではないから、だとは思うが……。
どうも、チハルは俺が無尽蔵に魔術を使い続けられる集中力の持ち主と思っているらしい。ここ三日間、彼女の俺を見る目に前にも増して尊敬の色合いが増している。絶対違うと思うから、正直戸惑いばかりが先立つのだが……。
「――お父ー! お父ー!」
と、そこに耳慣れた別の娘の声が飛び込んできた。そちらに目を向けてみれば案の定、ソラルがこちらに向かって走ってきていた。
その後ろには、ゆっくりではあるがバンパ兄貴やアダムの姿も見える。
「……三人揃って、ということはあっちは大体終わったのか?」
「ホントだ、みんないる。ソラが全力で走ってるみたいだけど、なにかあったのかな?」
「普通にできた……というには妙にテンション高く見えるな。嬉しい誤算でもあったならいいが……」
顔だけ起こしたチハルと言葉を交わしながらも、俺はここから動けないのでソラルたちの到着を待つ。
「お父!」
「おう、よく来たな」
ほどなくして、ソラルが俺に飛び込んで来た。チハルと違って遠慮のきいた、しかし程よく勢いづいた突撃である。
それを正面から受け止めて彼女の頭を撫でくり回すと、チハルも「ボクも!」と言って飛び込んで来た。仕方なく二人を抱えてもみくちゃになっていると、
「お前のところは相変わらずだな」
「俺知ってるヨ、こういうのふぁざこんと親バカって言うんダ!」
追いついて来た兄貴とアダムに軽く笑われた。
「心外な……と言いたいところだが、正直俺もそう思う」
それはとりあえず、軽く流しておくとして。
「それで? 三人ともここに来たってことは、メスが完成したと見ていいんだよな?」
両脇に子供たちを抱えて問いかける。俺の目線は、アダムが脇に抱えている小さめの布包みに釘付けだ。
ところが返事は微妙なものだった。兄貴は首を傾げて頰をかきながらアダムを見るし、そのアダムも、
「多分ネ!」
と言って曖昧に笑うだけだ。
唯一ソラルだけが、
「とんでもないのができたですよ!」
と、鼻息も荒く断言してくれたのだが、そんなに怪しいものができたのだろうか。
俺がソラルと兄貴たちを交互に眺めると、観念したのかアダムが抱えていた包みを開けながら俺の目の前に差し出した。
「こんなのできタんだケド……」
そこにあったもの。
それは、青く輝く刃を持ったメスが、三本であった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
というわけで、大雑把な手術方法の説明回でした。
おおよその要素は血の力でゴリ押し。やりすぎると手術中に開腹部分が治っていくので加減が必要ですが。
それとバリア。輸血できないなら、そもそも出血させなきゃいいじゃないという発想で。
まあこれだけやっても絶対成功するとは断言できないと思いますけどね・・・。




