83.お蚕様(らしきもの)
スズメバチの世話が終わったら、次はカイコのほうへ移る。
こちらは営巣するスズメバチと異なり、羽化したら飛んで行ってしまうので、巣箱は小屋の中に設置してある。もちろん出入りは可能だが、野ざらしよりはマシだ。
かといって巣箱を完全に密閉してしまうと、羽化したとき狭さに耐えかねて暴走した挙句、壁に激突して死んでくれる。おかげで多少の脱走は大目に見ざるを得ない。
まあ、無事に脱走できるやつなどほぼいないけれども。
場所的にはスズメバチの巣箱の近く。百メートルも離れていない地点にあるので、ほぼお隣さんと言っていいだろう。
そんな近距離にカイコを置いていたらスズメバチに襲われると思うかもしれないが……もちろん襲われる。しっかりがっつり餌にされている。脱走などしようものなら、即刻餌食だ。
しかしこのカイコ、スズメバチに食われることも想定したうえで実験動物にしているので、それ自体は問題ではなかったりする。
先にも述べたが、スズメバチを飼い始めた最初の動機は、俺の血を飲ませた生物を捕食した生物がどうなるか調べるため。
しかし彼らの食料は当初狩りで賄われていたため、口に入るころには獲物が死んでいることが多かった。それでは俺の血を飲ませることができない。だからこそ、餌として管理できる捕食対象を用意する必要があった。
そう、カイコはそれに選ばれたのである。彼らにとっては迷惑千万かもしれないが……要するに、彼らは食べられることも仕事なのだ。
まあ、全部食い尽くされたらそれはそれで困る。なので、カイコたちの巣箱は複数に分けて設置してあり、スズメバチたちには襲っていい場所、ダメな場所を教えて分けている。
うちのスズメバチたちは既に述べた通り、俺たちの命令は遵守してくれるから、こういう管理ができる。正直言って、楽でありがたい。
その中で、襲ってもいい場所としているほうへ、まずは足を運ぶ。
「こっち、全滅してるね」
「今年はハチたちの数が多いからな……その分早いのかもしれない」
巣箱はもぬけの殻だった。見事に全滅である。
無理もない。双子の小さい美女に呼び出される例の巨大ガならともかく、ただのガでしかないカイコたちがスズメバチの大群に敵うわけがない。
あのスズメバチたち、俺たちに対しては大人しいがそれ以外に対しては容赦ないし。
「餌用にこっち移す?」
「いや、今の数だとこれ以上餌にするのはまずい。本当に全滅しかねない」
「それは困るねぇ」
特にもう一か月半ほどして夏が終わりに近づくと、スズメバチたちはさらに貪欲に餌を求めるようになる。
理由は現代の普通のスズメバチと同じ。次代の女王蜂を育成するために、その世話をする未来の働き蜂のために、餌はどれだけでも必要になるからだ。
うちのスズメバチたちは成虫が食事不要ということもあってか、現代日本人を最も殺す野生動物とも言われるほどの獰猛さは見せない。それでも攻撃性が上がることは間違いないので、そこにカイコを出したらあっという間だ。
今からその未来が見えるので、これ以上食事オーケーエリアにカイコは動かさない。食べられることだけが彼らの存在意義というわけでもないからな。
「空になった巣箱の掃除は後でいいか……それより」
ということで、スズメバチに立ち入りを禁じているほうの巣箱へ向かう。
こちらはちゃんと無事だ。この光景を見ると、ハチたちはちゃんと命令を完璧に履行しているのだなぁと改めて思う。
「こっちは大丈夫だね」
「ああ。よく従ってくれている」
あのスズメバチを発見できたのは、まったく僥倖だ。転生してからというもの、俺のステータスはだいぶ運に偏っている気がする。
まあ、今はそれは置いといて……。
カイコ。正式名称はカイコガで、ご存じの通りガの一種だ。彼らの繭が絹の原料になる、ということは現代では当たり前に知られているだろう。
が、今俺が飼っているのは、正確にはカイコではない。
今まで何度も触れてきた牛やら鹿やら、あるいはスズメバチやらは大体の場合、原種であったり類似種であったり……ともかく、見た目は現代のそれとよく似ていた。
しかしカイコに関しては、現代の生物に似ているということすらなく、完全な別物だ。見た目とかもう、まったく違うと断言できるレベルに違う。
どれくらい違うかを述べるとたくさんあるが、まず幼虫。こいつら、全身黒くて毛がないうえに、この段階で既に糸を防衛手段に使う。
これだけでも結構違うが、成虫になってもトロピカルな感じの鮮やかな羽、とまるときに羽を閉じる、寿命が十日ほど長い、などなど、完全に別物だ。
じゃあなぜカイコなどと名付けたのかといえば、繭が理由だ。彼ら自身はカイコとは似ても似つかないが、生成する繭はかぎりなくカイコのそれに近かったのだ。
ほぼ純白の、同じような形の繭だぞ。糸にしたときの雰囲気も、素人目には絹と見分けがつかなかった。だからこその命名である。
まあ、俺に新しい名前をつけるだけのネーミングセンスがない、というのも否定はできない。
これについては、そもそも原始時代で命名に前例などない、ということで開き直った。どうせ、カイコが歴史上現れるまでまだ六万年以上も時間がある。早い者勝ちだ。
「繭は? まだできてない?」
巣箱を覗き込みながら、チハルが言う。
「まだだな。たぶん、もう半月くらいだと思うが……」
箱の中でうごめく幼虫たちを見て、答える。
飼育歴はまだ四年ほどだが、丹念な観察の結果、おおまかな成長過程は把握している。サイズなどからして、そんなところだろう。
「そっかぁー。カイコのサナギ、おいしいから早く食べたいんだけどなー」
「……それが本来の目的じゃないからな?」
確かに、繭を糸にするに当たっては、中のサナギには死んでもらうしかない。何せそのまま茹でるし。そうなったら、使い道は食うくらいしかないということも理解できる。
実際、かつてはそれも食用に充てていたらしいし、現代日本でも人は食わずとも飼料にしていたという。
だからチハルの発言は、むしろ正しい。食料の乏しいこの時代では、こういうものも無駄にするわけにはいかないしな。
ただ、食用に飼っているわけではないとは、カイコを飼い始めたときに説明していたはずなのだが。ちゃんと服のためだと説明したのに。
なのになぜ食欲一直線に向かってしまうのやら……。
「わかってるよ、服のためでしょ? でもさぁ、カイコの服って軽いのはいいけど、すぐボロボロになるんだもん」
「いや、あれは布が悪いわけでは……ないと思う、んだが……」
色気の欠片もない発言に、俺は苦笑する。去年、初めて作れたまともな絹糸を惜しげもなく使った服を、半日でお釈迦にされた記憶が脳裏をよぎった。
絹自体は丈夫なはずなのだが、何をどうしたらあんなことに……。確かに、チハルのように派手に運動して、狩りにも行くとなると消耗も早いだろうが……だとしても早すぎる。
この辺り、品質的な面で実際のカイコと差があるのか、それとも魔術が何らかの影響を及ぼしているのか……どちらが正しいかはまだわからない。今後の課題だと言えよう。
とはいえ、チハル以外の一般的な女性陣からはおおむね好評だった。前世、五千年にも渡って王侯貴族を中心に愛好された絹の貫禄は伊達ではない。
……妹たちがチハルに続く可能性は、十分あり得るけれども。
「おしゃれのための服、でしょ? でもボク、そういうのは趣味じゃないかなぁ」
色の綺麗な服着ても狩りはうまくならないし、と付け加えると、チハルはえへらと笑った。ごもっともで。
この子が女を自覚するのはいつになるのだろう……。
結婚と出産が女の幸せとは言わないが、かといってこのまま独身の干物女しか選択肢がないというのは、さすがに父親としてどうかと思う。恋愛を理解した上で結婚しないのと、恋愛そのものを理解できないのはまた別問題だろうと……。
少しはソラルを見習っ……いや、ないな。それはない。恋愛対象が実の父親というのは、ちょっと。
……話を戻そう。
いずれにしても、絹糸はまだまだ十分な量が確保できない。試行錯誤の最中であり、今年にしてもどれだけの量が採れるかは未知数だ。おかげで繭の数に反して、途中で没にしてしまう量がかなり多い。
それに絹は、麻と違って原料の取れる量がそもそも少なすぎる。この点もネックだ。
とはいえ、こればかりはすぐにはどうにもならない。未来への宿題だな。
「ま、それはさておき。餌やりと掃除するぞ。それから観察だ」
「はーい」
「チハルは餌用の葉っぱを持ってきてくれるか」
「おっけー!」
というわけで、何はともあれ仕事だ。一旦カイコの幼虫たちをどかし、彼らに糸を吹きかけられながら巣箱をきれいにする。
こいつら、なぜかいつも的確に頭を狙ってきやがるんだ。自転車に乗っているさなか、クモの巣に突っ込んだ気分だよ。
それからチハルが持ってきてくれた葉っぱを敷き詰めて、と。
このカイコ、実際のカイコと違って葉っぱなら何でも食う。その点で言えば、カイコより飼育は楽と言えるだろう。
あとは、最近成果がないので惰性になりつつあるが、こいつらにも血を与える。あまりチハルに追及されたくないので、こっそりと。
これは昆虫であっても俺の血の影響を受けるのか。あるいは俺の超治癒力を受け継ぐのか。その実験だ。
まあ、今言った通り、これで成果が上がったことは今のところない。ウサギにしても一件しか事例がないくらい低確率なので、あるいはまだないだけなのかもしれないが……昆虫には効果がない、という結論が出る日は近いかもしれない。
もしそうだったとしたら、スズメバチに捕食させている実験はたぶん前提から崩れるので、複雑な心境だ。
そして今日も特に目立った変化はない。やれやれだ。スズメバチみたいに、何か魔術的な反応を見せてくれればいいのだが……と、言うのは贅沢か。
「何も成果がないのも成果の一つとは言うが、さすがにこう何もないと参るな」
「……それより父さん、頭洗ったほうがいいよ。糸でひどいことになってる」
「知ってる。でもその前に、空いた巣箱の掃除だな」
「父さんがあとでいいならいいけど……」
やけに渋るチハルに適当に返しつつ、先ほどスルーした全滅の巣箱へ向かう。
……が、どうも今日はいつもより多めに糸をかけられていたようで、一通り終えたあと、ばったり出くわしたアダムに大爆笑された。
あいつめ、腹抱えて涙流すほど笑いやがって。絹糸紡ぎの確立のためにこき使ってやろうか。
ほの暗い邪念を抱きながら、俺は昼飯を求めて帰宅した。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
前回と同じく、一旦話題を保留していたカイコ(ですらない何か)でした。
こちらはスズメバチと違って、幻想生物ではありません。普通のガです。
ただ、実は繭・・・というか絹糸が、ちょっとだけ幻想っぽい機能を持っているのですが・・・。
それを本編中に開示する余裕はないかもしれません。この後はほぼクライマックスに向けて一直線の予定なので・・・。




