優しい狼
“このネタ、温めますか?”という短編集においていた作品です。
ジャンル変更にともない、短編として投稿することにしました。
雨柚の他の作品の元ネタです。登場人物が幼女と狼っていうところから、どの作品かわかるはず。
元々は、こんな感じになる予定でした。……たぶん。
ねぇ、狼さん、狼さん。
どうしてそんなにお耳が長いの?
耳? そうだな……お前の声がよく聞こえるように、かな。
じゃあ、どうしてそんなにお口が大きいの?
そうじゃないと、お前が泣いたとき涙を舐め取ってやれないだろう?
私、そんなに泣き虫じゃないもん!
ははっ、どうだか。
……じゃあ、じゃあっ!
狼さんの牙はどこに行っちゃったの?
お前はあれが怖いんだろう? だから、俺には必要ないんだ。
………………。
爪も? 狼さんの爪、私のせいで無くなっちゃったの?
……いいや、俺がお前を傷付けたくなかっただけだ。
牙も爪もない、この獣の身体でもお前くらい守れるさ。
―――だから。
大事な、大事な赤頭巾。……どうか、ずっと笑っていてくれ。
◇◇◇
狼はその森でたった一匹だけだった。
幼い頃に群れからはぐれて以来、同族に会ったことがない。
狼は知っている。群れからはぐれてしまった他の動物達が、肩を寄せ合って生きているのを。
でも、狼はずっと一匹だった。
温和な鹿も、寂しがり屋の兎も、お調子者の猿も、物知りの梟も……皆、狼を見ると一目散に逃げ出してしまう。乱暴者の野犬だって、狼には近付かない。
そんな狼に、ある日、転機が訪れる。
「わあっ、狼さんだ!」
瞳を輝かせて狼を見つめているのは、まだ十歳にも満たないであろう幼い少女だった。
狼は立ち止まり、ジッと目の前の少女を観察する。
森にニンゲンがいるのは珍しい。それが小さな子どもであれば尚更だ。
ざわり、ざわりと森がざわめく。
どうやら、遠巻きにこちらを見ている他の動物達も興味があるようだ。相手は無害そうな少女なのに近付いて来ないのは、傍に恐ろしい狼がいるからだろうか。
己に向けられた視線に気付いているのか、いないのか。
真っ赤な頭巾をかぶった少女は物怖じせずに問いかける。
「こんにちは、狼さん。お散歩中?」
狼は一瞬、それが何なのか分からなかった。
ふわりと心を覆った温かさと共に、自分に向けられたものが笑顔であると気付く。
「ああ。お前は何でこんな森にいるんだ?」
ここは狼がいるような森だ。きっと、彼女の親は心配しているだろう。
迷い込んだのだろうか。
狼に笑いかけてくれるような、こんなに優しい少女ならば森の外まで送ってやるのも吝かではない。
「お祖母ちゃんの家に行くの。この森を通るのが近道なのよ」
母には禁じられているのだが、と語る少女の眼には小さな悪事を楽しむような色がある。狼にとっては何一つ珍しいことなどない森でも、少女にとっては冒険のしがいのある場所なのかもしれない。
「その家はどこにあるんだ?」
「あっちの方。お母さんと一緒に作ったケーキとこの葡萄酒をお祖母ちゃんに届けに行くの」
少女が指差した方を見て、狼は少なからず落胆した。彼女が示した道を真っ直ぐ行けば、程なく森を抜けてしまうだろう。
狼は森の外には出られない。出れば、ニンゲン達に追い立てられるに決まっている。
この温かな存在ともう少しだけ一緒にいたい。
もっと温かい笑顔を向けてほしい。
そう考えた狼は、咄嗟に、また歩き始めようとした少女を引き止めた。
「花……花を摘んで行かないか?」
「お花?」
「ああ、このすぐ近くに綺麗な花がたくさん咲いている花畑があるんだ。そこの花を摘んで持っていけば、きっとお前のお祖母さんも喜ぶだろう」
「でも、場所が分からないし……」
逡巡する少女の背を押すようにに、狼は案内役を買って出る。
「よし、俺が案内してやろう」
「本当!? ありがとう、狼さん」
優しいね、と微笑みかけてくる少女の隣を狼は弾む足取りで歩き始めた。
日もとっぷり暮れた森の中。
花畑で抱えきれないほどの花を摘んで来た少女と狼は、森で一番大きな木の下で蹲っていた。
「どうしよう……っ」
暗くなってきた周囲に不安を煽られたのか、声を上げて泣き始めた少女の頬を涙が伝う。
狼はそれを、慰めるようにペロリと舐めた。突然のことにびっくりした少女の涙が止まる。
少女の眼を見ながら、狼は申し訳なさそうに謝った。
「すまない……俺が花畑なんかに誘ったばかりに」
狼が耳と尻尾を垂れて項垂れると、少女はぶんぶんと首を横に振る。紡いだ言葉は涙声で少し聞き取りにくかったが、どうやら違うと言いたいらしい。
「おっ……ぉ、おかみさんのせ、じゃなっ……よ」
「だが……」
「私のせ、だも。お母さっの……っ、言うこと……聞かな、かったから」
途切れ途切れに語る言葉は本当に悲しそうで、狼は耳を塞いでしまいたくなった。
狼を責めることなく自分の行いを後悔している様子の少女に罪悪感が募っていく。
いつもと違う道を行けば、まだ幼い少女が迷ってしまうであろうことなど、狼には簡単に想像できたというのに。
「ううぅ……っ、おかあぁさんっ、おとぉーさーんっ」
両親を呼びながら再び泣き始めた少女を前に、狼は途方に暮れたような顔をした。
泣かせたかったわけじゃない。悲しませたかったわけじゃない。
ただ、笑って、一緒にいてほしかっただけなのに。
「泣かないでくれ。きっと迎えが来るはずだから」
そう言った狼を、本当かと問いかけるように少女は見つめる。
「お前の母親も父親も必ず迎えに来る。だから、俺と一緒に迎えを待とう」
「……っ、ひく」
少女はしゃくりあげながらもコクリと頷いた。
少女が上着の袖で涙を拭う脇で、狼は歓喜と罪悪感に苛まれる。
迎えが来るまでとはいえ、彼女が共にいてくれることは嬉しい。
けれど、浅ましくも尾を振ってしまう自分が許せない。迎えなど来なければ良いと、そう願ってしまう自分が何よりも醜い。
少女を泣かせたのは狼だというのに。
「……もう、悲しませたりしないから」
だから、嫌ったりしないでほしい。
狼の呟きは、もうすっかり暗くなった森の闇へと融けていく。
―――そうして、しばらくの間、狼は少女……赤頭巾と共に暮らすことになった。
◇◇◇
赤い頭巾にちなんで、少女は村の人達から赤頭巾と呼ばれている。
母お手製の頭巾は赤頭巾のお気に入りで、毎日のように頭巾をかぶって外に出掛けていた。
だから、狼に名前を聞かれたとき、そう答えてしまったのかもしれない。
「赤頭巾?」
会話の途中で黙り込んでしまった赤頭巾に気付いたのか、心配そうな眼をした狼が呼びかけた。
どうかしたのか、と問いかける彼に首を振って答える。
「何でもない」
目を瞑って、狼の肉球を頬に当てる。
家で飼っている猫より固いそれはほんのりと温かく、伝わってくる熱が心地良かった。
「おい」
困ったように赤頭巾を見つめる狼を無視して、すりすりと肉球に頬を擦り付ける。しばらくすると、諦めたのか、やけに人間くさい溜め息を吐いて狼はされるがままになっていた。
狼は変わった、と赤頭巾は思う。
優しくなったとか、怖くなったとか、そういう変化ではなく狼は変わった。
まず、牙がどこかへ行ってしまった。
牙を剥き出しにして笑う姿など赤頭巾が泣いてしまうほど怖かったのに、今の狼にその面影はない。今の狼に比べれば、近所のよく吠える犬の方が怖いだろう。
「えいっ」
口元の皮をみょんと引っ張ると、グルルと唸られる。
それでも、赤頭巾を見る眼はとても穏やかなものだった。
狼の顔を引っ張ったり、押さえたりして変な顔を作る。少しだけ迷惑そうだ。
そうして、ひとしきり遊んでから再び肉球を触ったが、狼はもう何も言わなかった。
「狼さんの肉球固い」
「なら、触るな」
口を尖らせて文句を言えば、素気無く返される。
ムッとして肉球を強く押してみるが、痛がる素振りも見せない。くすぐってみても、微かに笑うだけだった。
狼への悪戯に飽きた赤頭巾は大きな前足を抱えるように持ち上げたが、腕には傷一つ付かない。
だって、あの鋭い爪がないから。
そう、爪が無くなったのだ。
狼の肉球を触っていたときに怪我をしてしまったことがあり、正直ちょっと怖くなっていたので、赤頭巾としては無くなって良かったと思っている。
これで、思う存分、狼にじゃれつける。
「ふっさふさ~」
「おい、どこに顔付けてんだ」
「狼さんのお腹」
「っ、こら、毛を引っ張るな!」
目の前のふさふさした毛並みに顔を埋め、その感触を楽しんでいると、当然狼の身体がピクリと微かに動いた。赤頭巾が狼に触れていなかったら分からなかったであろう、小さな動きだ。
「どうしたの?」
「森が騒がしい」
「?? ……どういうこと?」
他の動物達がお祭りでもしているのだろうか。
そう考えると、ワクワクしてくる。
赤頭巾は期待に膨らむ胸を抑えて、狼の返答を待った。
騒がしいと言った方を向いている狼の耳は周囲を窺うようにピンと立ち、鼻面はヒクヒクと何かの匂いを嗅ぐように動いている。
ややあって返された狼の言葉は、ある意味、赤頭巾の期待以上だった。
「……ニンゲンが来たみたいだ」
「えっ…………もしかしてっ、迎えに来てくれたのかなっ?」
父だろうか、母だろうか。
勢い込んで尋ねる赤頭巾に狼は、分からない、と返した。
違うのかと赤頭巾が落ち込むと、それを見兼ねたのか、狼は少し悲しそうに言葉を加える。
「確たることは言えないが……この森に来るニンゲンは少ない。今、森を騒がせているニンゲンがお前の両親でなくとも、お前を探しに来たニンゲンであることは間違いないだろう」
ニンゲンが来ることなんて年に数回あるかないかだからな、と続けた。
「そっか」
そうポツリと呟くと、後からじわじわと実感が湧いてくる。
迎えが来たのだ。
誰が来てくれたのかは分からないが、狼によれば赤頭巾を探しに来てくれたのだろうという。
やっと。
やっと、家に帰れる。
「……っ、やったあぁ!!」
赤頭巾は両手をあげ、文字通り飛び上がって喜んだ。
飛び跳ね、勢い余って転びそうになるのを狼が身体で支える。
「やったよっ、狼さん! お家に帰れる!!」
赤頭巾が満面の笑みを浮かべ狼の方を見ると、当然笑い返してくれるものと思っていた狼はなぜか悲しそうにシュンと尻尾を垂れていた。
不思議に思って……ほんの少しだけ不満を混ぜて、狼に問いかける。
「……喜んでくれないの?」
「いや、良かったと思ってる。お前にとっては、家に帰れるのが、両親に会えるのが一番だろう」
それは全然良かったなんて思っていない様子で、赤頭巾は一緒に喜んでくれないという不満よりも狼を心配する気持ちが強くなった。
「どうしてそんなに悲しそうなの?」
「……お前が帰ってしまうから」
「…………?」
それは当たり前だ。
森は、赤頭巾の家ではないのだから。
「お前が、赤頭巾が森から出て行ってしまうのは……寂しい」
つまり、狼は赤頭巾との別れを惜しんでくれているのだ。
そう考えると同時に、赤頭巾の心の中に嬉しさが込み上げてきた。
そんなこと、気にしなくても良いのに。
一緒にいたいなら、ずっと一緒にいれば良いだけなのに。
嬉しがった赤頭巾を訝しげに見ている狼に、赤頭巾は笑って告げる。
「じゃあ、一緒に行こうよ!」
「……一緒に?」
「うんっ! 私がお母さんに言ってあげる。だから一緒に私のお家で暮らそうよ」
良い考えだと一人頷く赤頭巾は、そうだな、と曖昧に微笑んだ狼の表情を見てはいなかった。
赤頭巾は迎えが来たと知ってから、そわそわと落ち着かない様子で辺りを歩き回っている。
その様子を座りながら、やはりまだ寂しげに眺めていた狼は突然立ち上がった。
「赤頭巾、俺がニンゲンをここまで案内して来よう」
思いもしない申し出に驚きを隠せない。
「えっ、良いの?」
「ああ。だから、ここにお前がいることが分かるよう、その頭巾を貸してくれないか?」
「……そっか! お母さんとお父さんだったら、これを見たらすぐ私だって分かるもんね」
赤頭巾の赤い頭巾は有名だから、他の村の人でも分かるだろう。
快く応じ、赤頭巾は付けていた頭巾を外して狼に渡した。
狼は頭巾を咥えると、赤頭巾に向かって一つ頷いてから、人がいるであろう方へと駆けて行く。
―――狼が迎えを連れて来てくれることを信じ、赤頭巾はその後ろ姿を幸せな気持ちで見送った。
◇◇◇
娘がいなくなった。
その事実は、妻と娘をこよなく愛する狩人にとって、衝撃以外の何物でもなかった。
昨日は、娘がまだ帰らず、祖母の家にも着いていないと分かってから村人総出で娘を探した。
祖母の家までの道のりを何度も、何度も。
しかし、娘は見つからなかった。
妻は、いつも通り祖母の家へと娘をお遣いに行かせたのだと言う。
あの子ももう大きいからとどうして一人で行かせてしまったのか、と嘆く妻を宥め、狩人はこの森へ足を踏み入れた。
妻が娘に教えた祖母の家までの道は、森を迂回する道。
娘が妻の言いつけを守っていたなら、この森には決して入っていないはずだ。
けれど、狩人が知る娘は好奇心旺盛で悪戯好き。近道だからと森を通り抜けようとした可能性は高い。
家で待つ妻も、狩人も寝ていない。
疲労の濃い顔で森の中を歩き回り、娘を探して声を張り上げる。
狩人は愛娘の無事だけを祈っていた。
ガサッ、と茂みが揺れる。
野犬でも出たのかと、肩にかけた猟銃を構える狩人の前に現れたのは……大きな狼。
その狼は、可笑しなことに何か赤い物を咥えている。
赤い布のようなそれが何か悟った瞬間、狩人は我を失い発砲していた。
「……このっ!!!」
赤い頭巾。
妻が娘のために作った、娘のお気に入りの頭巾だ。
なぜ、狼がそれを咥えているのか。
最悪の事態が頭をよぎった。
「許さん…………」
ひらりひらりと、その大きな体からは想像できないほど機敏に狩人の放った弾を避ける狼。
今は見えないその鋭い牙が、爪が、狩人の娘を屠ったのだろうか。
「許さんぞっ、この獣があぁ!!」
狩人の怒りに燃える眼が狼を射抜いた。
狩人は銃弾を軽々とかわしていく狼を追いかけ、森の奥へと進む。
狼は人間より遥かに足が速いのだから逃げ去ってしまえば良いものを、狩人から一定の感覚をあけて駆ける狼は狩人をどこかへ誘導しようとするようだった。
だが、冷静さを欠いている狩人はそれに気付かず、怒りに任せ狼を追い続ける。
「くそっ」
狩人は、自分の前を走る狼を睨みつけながら毒づく。
もう手元に弾はない。残っているのは一発だけ。
ずっと狼に向けて撃っているのだから、限りある銃弾が切れるのも当然のことだった。
――お父さんっ!!
幻聴か、娘の呼ぶ声が聞こえた。
「…………っ」
弾が無くなったと分かったら、狼は狩人に襲いかかってくるかもしれない。
それでも、狩人は娘を喰い殺した狼に一矢報いたかった。
「当たれえぇっ!!」
叫びながら、最後の一発を放つ。
それは、確かに当たろうとしていた。
狼ではなく……銃声を聞きつけて出て来た狩人の娘に。
「なっ!?」
生きていたのかとホッとする間もなく、狩人の顔から血の気が引く。
再会できた父親と狼のただならぬ様子に、赤頭巾は目を見開く。
誰よりも早く赤頭巾に気付いた狼は、彼女の方へと全力で駆ける。
全て、一瞬の出来事だった。
「…………ぐっ!!」
痛いほど張り詰めた空気を破るように、狼の呻き声が辺りに響く。
「……お、おかみ、さん?」
狼に庇われて無事だった娘は、狼の腹から流れ出る真っ赤な血を見て、声を震わせた。
咄嗟に駆け寄ろうとした娘を、狼に近付けさせまいとするように狩人が抱き上げる。狩人は、無事で良かった、と強く強く娘を抱きしめた。
「……おと、うさん」
狩人はショックを受けた様子の娘を、目の前で動物が撃たれたからだと理解し、目を逸らさせるようにわざらしく明るい声を出す。
「ああ、本当に無事で良かった! 母さんも待ってる、早く家に帰ろう」
そう言ったと同時に、死んだと思われた狼が動いた。
狩人は笑みを消し、倒れた狼を注意深く見つめる。
「…………っ」
「………………」
フラリと少しよろけながらも立ち上がった狼は、警戒して一歩下がる狩人と、狩人の腕の中で呆然とする娘を一瞥し、黙ったまま茂みの中へと消えた。
「っ、や! ……狼さんっ」
いきなり暴れ出した娘に、狩人は困惑する。
仕方なく、地面に下ろすと、娘は茂みへと駆け寄り、泣きながら狼が去った方を見つめた。
涙を流す娘が何を嘆いているのか分からない狩人は途方に暮れて、キョロキョロと辺りを見回す。
そんな狩人の視界の端に赤いものが映った。
撃たれたとき、狼が落としたのだろうか。
あの狼がなぜ娘の頭巾を咥えていたのか、今となっては分からない。
―――狩人は地面に落ちている赤い頭巾を、そっと片手で拾い上げた。
◇◇◇
「……はい、これでこの話はお終いだよ」
そう告げると、孫娘は悲しそうな顔を祖母に向けた。
祖母が語った物語に感情移入してしまったらしい。
「ねえ、お祖母ちゃん。その後、狼さんはどうなったの?」
大人なら誰でも分かるであろうことを尋ねる孫娘に、祖母は目を細める。
実は祖母も、去って行った狼がどうなったか知らない。
だから、想像することしかできなかった。
たとえ、その想像が悲しい結末でしかなかったとしても、大人になってしまった彼女には他の答えを見つけることができない。
「お祖母ちゃん?」
黙り込んだ祖母に、孫娘は訝しげな視線を向けた。
瞳に心配そうな色を宿す孫娘を傷付けないよう、祖母は穏やかな微笑みを浮かべて答える。
「あの後、傷の治った狼は仲間と合流し幸せに暮らしたそうだよ」
祖母も、幼い頃は何の疑いもなくその答えを信じていた。
本当にそうだったら良いのに。
今でもそう思う。
「そっかぁ、良かったあ」
孫娘はホッとしたように息を吐いた。
そしてまだ何か聞きたいことがあるのか、あっ、と声を上げる。
「赤頭巾は? その後、赤頭巾はどうしたの?」
祖母も、それならよく知っている。
「赤頭巾はねえ…………大きくなって村の男と結婚して、子どもができて、可愛い孫ができて……」
孫娘は自分を見つめる祖母の言葉の続きを待った。
祖母が言うには、狼は幸せに暮らしたらしい。
なら、赤頭巾も幸せに暮らしたのだろうか。
孫娘の心を読んだように、祖母が付け加える。
「幸せに暮らしましたとさ」
「えー、でも」
物語の終わりの常套句のようなその言葉に、孫娘は納得がいかないと頬を膨らませた。
そんな孫娘を祖母は愛おしげな眼で見つめる。
「狼さんも赤頭巾も一緒にいたかったんでしょ? 一緒にいられなかったのに、幸せになるのはおかしいよ。だいたい、何で狼さんは傷が治ったのに赤頭巾と一緒に暮らさなかったの?」
「そうさねぇ……」
なぜ一緒にいてくれなかったのか。
なぜわざと離されるようなことをしたのか。
昔はずっとそればかり考えていた。
あの狼なら、頭巾を咥えて狩人の前に出れば、撃たれると分かっていただろう。
赤頭巾を庇って撃たれたのは誤算だったのかもしれない。けれど、あのとき傷を負わなかったとしても、狼にはあれ以上、赤頭巾と一緒にいる気がなかったような気がするのだ。
むしろ、一緒にいられない状況に自ら追い込んだような……。
「狼が何を考えていたのかなんて、私には分からないさ。でも、きっと赤頭巾の幸せだけを考えてくれていたんだろうねぇ」
考えに考えて、祖母はそれだけを孫娘に告げた。
納得こそしなかったものの、答えた祖母の雰囲気にそれ以上何も聞けなくなった孫娘はポツリと呟くように漏らす。
「優しい狼だったんだね」
「そうだね、優しかった。寂しがり屋で……とても優しい狼だったよ」
祖母は目を瞑り、噛み締めるように繰り返した。
話を聞き終えて眠気が襲ってきたのか、うとうとしだした孫娘に祖母は自分の膝掛けを掛けてやった。
そして、立ち上がったついでとばかりに、近くの戸棚から丁寧に折り畳まれた赤い布を取り出す。
赤頭巾は狼のおかげで幸せだった。
だから、せめて、狼が幸せな眠りに就けたと信じよう。
―――そうして、歳を重ね、祖母となった赤頭巾はあの日の名残りをそっと撫でた。
焼けるような痛み、というのだろうか。
彼女を庇って撃たれた腹からは赤い血が流れている。
赤は好きだ。
彼女を思い出させてくれるから。
「ちゃんと帰れたか?」
何もない虚空に問いかけた。
まだ父親と家に帰る途中だろうか。それとも、もう母親とも再会しているのだろうか。
何にせよ、彼女が幸せならそれで良い。
彼女が笑っていてくれるなら、それだけで自分は満足して逝ける。
「……ん?」
霞がかかるように遠ざかっていく意識の片隅で、近くに動物がいることに気付いた。
以前、彼女に言われて見逃した兎だ。
何をしに来たのだろうか。
不思議な気持ちで見ていると、兎は口に咥えていた一輪の花を狼の目の前に置いて去って行った。あれだけ近寄ったくせにまだ狼が怖いのか、少し離れた茂みからこちらの様子を窺っている。
「……これは」
どんどん目が見えなくなっている狼にも、その花が何か分かった。
花の鮮烈な赤い色に、彼女の言葉が脳裏に蘇る。
――狼さんっ、このお花、私の頭巾と同じ色!
もう目を開けておくことすらできなくなってきた狼は、真っ赤な花を目に焼き付けて瞼を閉じた。目に焼き付けたのは花だというのに、閉じた瞼に浮かぶのはあの笑顔。
「……ありがとな」
狼は先程、兎がいた場所へ向かって礼を言う。
最期の最後に見るものとして最高の贈り物だ。
その森で一匹だけの狼は赤い花を前に、幸せそうに笑いながら息絶えた。